、それを検査するためにすべての感覚、記憶及び悟性を召喚した後に、そのうちのいずれによってもその他のものと矛盾するいかなることも私に知らされないならば、わずかなりとも疑うことを要しないのである。なぜなら、神は欺くものではないということから、かかるものにおいて私は過たないということが一般に帰結するからである。しかしながら行動の必要はつねにかように厳密な検査の余裕を与えないゆえに、人間の生活は特殊的なものに関してしばしば誤謬に陥り易いことを告白しなければならず、そして我々の本性の弱さを承認しなければならないのである。
[#改丁]

   幾何学的な仕方で配列された、
     神の存在及び霊魂と肉体との区別を証明する諸根拠


       定義

 一 思惟[#「思惟」に傍点](cogitatio)という語によって私は、我々がそれを直接に意識しているというふうに我々のうちにあらゆるものを包括する。かくして意志、悟性、想像力、及び感覚のすべての働きは、思惟である。しかし私は、思惟から帰結されてくるものを除外せんがために、直接に[#「直接に」に傍点](immediate)という語を附け加えた。例えば、有意運動はたしかに思惟を原理として有するが、それ自身はしかし思惟ではない。
 二 観念[#「観念」に傍点](idea)という語によって私は、その直接の知覚によって私がその同じ思惟自身を意識している、おのおのの思惟の形相(forma)を理解する。かくてすなわち私は、私が言うところのものを私が理解しているとき、まさにこのことからその言葉によって表わされたものの観念が私のうちにあることが確かであるのでなくては、言葉によって何ものも表現することができないのである。そしてかよううにして私は想像のうちに描かれた単なる像を観念と呼ぶのではない、否、私はここでかかるものを、それが身体的な想像のうちに、言い換えると脳の或る部分のうちに描かれている限りにおいては、決して観念とは呼ばず、ただそれが脳のその部分に向けられた精神そのものを形作る限りにおいて、観念と呼ぶのである。
 三 観念の客観的実在性[#「観念の客観的実在性」に傍点](realitas objectiva ideae)ということによって私は観念によって表現されたものの実有性(entitas)を、それが観念のうちにある限りにおいて、理解
前へ 次へ
全86ページ中77ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
デカルト ルネ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング