、通例のごとく身体の健康に飲料が役立つということからではなく、かえって水腫病において起るごとく、或る反対の原因から惹き起されるならば、それがこの場合に欺くということは、反対に身体が健全な状態にあるときにつねに欺くということよりも、遥かにいっそう善いことである。そしてその他の場合についても同様である。
ところでこの考察は、単に私の本性が陥り易いすべての誤謬に気づくためにのみでなく、またこれらの誤謬を容易に匡《ただ》しあるいは避け得るために、はなはだ多くの貢献をするのである。なぜなら実に、私はすべての感覚が身体の利益に関することがらについて偽よりも真を遥かにしばしば指示することを知っているし、また私は或る同じものを検査するためにほとんどつねにこれらの感覚の多くを使用することができるし、そしてその上に、現在のものを先行のものと結合するところの記憶や、すでに誤謬のすべての原因を洞見したところの悟性をも使用することができるからして、もはや私は毎日感覚によって私に示されるものが偽でありはしないかと恐れることを要せず、かえって過ぐる日の数々の誇張的な懐疑は、笑に値するものとして、追い払わるべきものであるからである。これはとりわけ私が覚醒から区別しなかったところの夢についての極めて一般的な懐疑がそうである。というのは、私は今、両者の間には、夢に現われるものは決して、醒めているときに起るもののように、生涯の余のすべての活動と記憶によって結び附けられないという点において、非常に大きな差別があることを認めるからである。なぜなら実に、もし何者かが、私の醒めているときに、夢において起るごとく突然に私に現われ、そしてすぐ後に消え失せ、かくしてもちろんこの者がどこから来たのかもどこへ去ったのかもわからなかったならば、私がこの者を真実の人間であると判断するよりもむしろ幽霊、または私の脳裡で作られた幻想であると判断するのは、不当ではないであろうから。しかしながら、それがどこから来たか、どこにあるかという場所、またそれがいつ私にやってきたかという時間を私が判明に認めるところの、そしてそれについての知覚を何らの中断もなしに全生涯の他の時期と私が結び附けるところのものが起るときには、それが夢においてではなく、醒めているときに起っていることは、私にまったく確実である。またかかるものの真理について私は、もし
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