が、右の問題について私が触れたことがらに関して、二つしか注目に値いする駁論は出なかった。この駁論に対して私はここで、右の問題のさらに厳密な説明を企てるに先立って、簡単に答えたい。
 第一の駁論は、自己に向けられた人間の精神は、自己を思惟するものであるとしか知覚しないということから、その本性すなわち本質[#「本質」に傍点]はただ、思惟するものであることに、このただ[#「ただ」に傍点]という語がおそらくはまた霊魂の本性に属すると言われ得るであろう余のすべてを排除する意味において、存するということは帰結しない、というのである。この駁論に対して私は答える、私もまたかしこで余のすべてを、ものの真理そのものに関する秩序において(これについてもちろん私はあのとき論じたのではない)排除しようと欲したのではなく、かえって単に私の知覚に関する秩序において排除しようと欲したのである、と。かくてその意味は、私の本質に属すると私が知るものとしては、私は思惟するもの、すなわち自己のうちに思惟する能力を有するものであるということのほか何物も私はまったく認識しないということであった、と。しかし以下において私は、いかにして、そのほかの何物も私の本性に属しないと私が認識することから、また実際にそのほかの何物も私の本性に属しないということが帰結するかを明白にするであろう。
 もう一つの駁論は、私が私のうちに私よりも完全なものの観念を有するということから、この観念が私よりも完全であるということ、ましてこの観念によって表現せられるものが存在するということは帰結しない、というのである。しかし私は答える、この場合、観念なる語に両義性が伏在すると。すなわち、それは一方質料的に、悟性の作用の意味に解せられることができ、この意味においては私よりも完全とは言われ得ないが、他方それは客観的に、この作用によって表現せられたものの意味に解せられることができ、このものは、たとい悟性の外に存在すると仮定せられなくとも、自己の本質にもとづいて私より完全であり得る、と。しかし、いかにして、ただこのこと、すなわち私のうちに私よりも完全なものの観念があるということから、かのものが実際に存在するということが帰結するかは、以下において詳細に解明せられるであろう。
 ほかに私は二つのかなり長い文章を見た。しかしその中では右の問題についての私の
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