りです。
ヘルマー 言語同斷だ、お前は全體そんな風にしてお前の一番神聖な義務を棄てることが出來るのか?
ノラ 私の一番神聖な義務といふのは何でせう?
ヘルマー それを私に尋ねるのかい。夫に對し子供に對するお前の義務を。
ノラ 私には同じやうに神聖な義務が他にあります。
ヘルマー そんなものがあるものか、どんな義務といふのだ。
ノラ 私自身に對する義務ですよ。
ヘルマー 何よりか第一に、お前は妻であり母である。
ノラ そんなことはもう信じません。何よりも第一に私は人間です。丁度あなたと同じ人間です――少くともこれから、さうならうとしてゐるところです。無論、世間の人は大抵あなたに同意するでせう。書物の中にもさう書いてあるでせう。けれどもこれからもう、私は大抵の人のいふことや書物の中にあることで滿足してはゐられません。自分で何でも考へ究めて明らかにしておかなくちやなりません。
ヘルマー お前は家庭における自分の地位といふものを知つてないのか? お前だつて何等かの道徳心は持つてゐようから、それとも何かえ、お前には良心さへもないのだらうか?
ノラ さうですね、それはむずかしいことでせう。私にはよくわかりません――そんなことには全く見當がつかないのです。ただ私、あなたのお考へなさるのと全く違つて考へてゐるといふだけは申されます。それからまた、法律だつて私の思つてたこととはまるで違ふといふぢやありませんか。そんな法律は私、正しいとは信じられません。娘が死にかゝつてゐる父をいたはる權利も夫の命を救ふ權利もないといふのですから信じられませんね。
ヘルマー お前のいふことは子供のやうだ。お前は自分の住んでゐる社會を理解しない。
ノラ えゝ、わかつてゐません。これから一生懸命わからうと思ひます。社會と私と――どちらが正しいか決めなくてはなりませんから。
ヘルマー ノラ! お前は病氣になつたのだ。熱病に罹つたのだ。殆んど本心を失つてゐはしないかと思はれるよ。
ノラ 今までに今夜ほど氣分のはつきりしてゐることはありません。
ヘルマー それほどはつきりした考へで、夫や子供を棄てるといふのかい?
ノラ さうです。
ヘルマー ではもう、説明の途は、たゞ一つしか殘つてゐない。
ノラ それはどういふのですか?
ヘルマー お前はもう俺を愛しない。
ノラ 愛しません、それが大事な點です。
ヘルマー ノラ!
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