関牧塲創業記事
関寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)故郷《こきょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)亦|曾《かつ》て

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、174−10]別《りくんべつ》
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創業記事端書

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世の中をわたりくらべて今ぞ知る
     阿波の鳴門は浪風ぞ無き
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予は第二の故郷《こきょう》として徳島に住する事殆んど四十年、為に数十回鳴門を渡りたるも、暴風激浪の為めに苦しめらるる事を記憶せざるなり。然るに今や八十一歳にして既往を回顧する時は、数十回の天災人害は、思い出《いだ》すに於ても粟起《ぞっき》するを覚うる事あり。然れども今日《こんにち》迄無事に生活し居《お》るは、実に冥々裡《めいめいり》に或る保護に頼《よ》るを感謝するのみ。
明治三十四年には、我等夫婦に結婚後五十年たるを以て、児輩《じはい》の勧めにより金婚式の祝を心ばかりを挙げたり。然るにかかる幸福を得たるのみならず、身体健康、且つ僅少なる養老費の貯えあり。此れを保有して空しく楽隠居たる生活し、以て安逸を得て死を待つは、此れ人たるの本分たらざるを悟る事あり。亦|曾《かつ》て予想したる事あり。夫《そ》れ我国たるや、現今戦勝後の隆盛を誇るも、然れども生産力の乏しきと国庫の空《くう》なるとは、世評の最も唱うる処たり。依《よっ》て我等老夫婦は、北海道に於ける最も僻遠《へきえん》なる未開地に向うて我等の老躯と、僅少なる養老費とを以て、我国の生産力を増加するの事に当らば、国恩の万々分の一《いつ》をも報じ、且亡父母の素願《そがん》あるを貫き、霊位を慰《い》するの慈善的なる学事の基礎を創立せん事を予《あらかじ》め希望する事あるを以て、明治三十五年徳島を退く事とせり。然るに我等夫婦は此迄《これまで》医業を取るのみにて、農牧業に経験無きを以て、児輩及び知己親族より其不可能を以て思い止《や》むべきを懇切に諭されたるも、然れども我等夫婦は確乎《かっこ》と决心する所あり、老躯と僅少なる資金と本より全成効を得《う》べからざるも、責めては資金を希望地に費消し、一身たるや骨肉を以て草木を養い、牛馬を肥《こや》すを方針とするのみ。成ると成らざるとは、只天命に在ると信ずるのみ。故に徳島を発する時は、其困苦と労働と粗喰《そしょく》と不自由と不潔とを以て、最下等の生活に当るの手初めとして、永く住み慣れたる旧宅を退き、隣地に在る穀物倉に莚《むしろ》を敷きたるままにて、鍋一つにて、飯も汁も炊き、碗二つにて最も不便極まる生活し一週間を経て、粗末なるを最も快しとして、旅行中にも此れを主張して、粗喰不潔の習慣を養成せり。故に北海道に着して、仮りに札幌区外の山鼻《やまばな》の畑《はた》の内に一戸を築き、最も粗暴なる生活を取り、且つ此迄《これまで》慣れざるの鎌と鍬とを取り、菜大根豆芋|等《とう》を手作《てさく》して喰料《しょくりょう》を補い、一銭にても牧塲費に貯えん事を日夜勤むるのみ。然るに甞《かつ》て成効して所有するの樽川村《たるがわむら》の地には、其年には風損《ふうそん》と霜害《そうがい》とにて半数の収益を※[#「冫+咸」、173−11]じたり。為に悲境を見る事あり、大《おおい》に失望して、更に粗喰と不自由とを以て勤めて其損害の幾分|乎《か》を償《つぐの》わんことを勤めたり。三十六年には主務なる又一《またいち》は一年志願兵となり、其不在中大雪に馬匹《ばひつ》の半数を斃《たお》したり。三十七年には相与《あいとも》に困苦に当るの老妻は死去せり。続いて又一は出征し、同秋に至り病馬多く、有数の馬匹を斃したり。為に予は一時病む事あるも、幸《さいわい》に復常《ふくじょう》せり。又一は三十九年五月|帰塲《きじょう》せり。予は三十七年迄は夏時《かじ》のみ牧塲に在るのみ。故に其概略を知るのみ。片山八重藏《かたやまやえぞう》夫婦の最初より今日迄の詳細を知るには及ばざるなり。依《よっ》て予が見聞する処の概略を記して、後年に至り幾分か創業の実况を知るが為ならんか。本《もと》より此れを世人に知らしむるにはあらざるなり。我子孫たる者に其創業の困難なるの一端を知らしめんと欲する婆心《ばしん》たるのみ。
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明治四十三年八月|※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、174−10]別《りくんべつ》停車塲《すていしょん》開通の近き日
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[#地から6字上げ]八十一老 白里《はくり》 関寛《せきかん》誌《しる》す
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十勝国《とかちのくに》中川郡《なかがわぐん》本別村《ぽんべつむら》字《あざ》斗満《とまむ》
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関牧塲創業記事
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[#地から6字上げ]八十一老 白里 関寛誌す

      (一)

明治三十三年八月、又一は札幌農学校在学中シホホロ迄|来《きた》り、同地にて実地を検して且つ出願せんとす。
三十四年一月、又一は釧路を経て※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、175−7]別《りくんべつ》に来《きた》る。
同年五月、斗満原野三百万坪余の貸付許可を得たり。
同年七月、又一農学校卒業す。直《ただち》に※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、175−9]別に来る。
同年十月、藤森彌吾吉《ふじもりやごきち》に左《さ》の牛馬を追わせて愛冠《アイカップ》に至らしむ。
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牛八頭 馬廿一頭。
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明治三十五年三月十七日、片山八重藏夫婦|樽川《たるがわ》を発し、北宝号《ほくほうごう》、耕煙号《こうえんごう》、瑞※[#「日+章」、第3水準1−85−37]号《ずいしょうごう》、札幌号の四頭《しとう》を追うて、落合迄※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車にて着。(中略)。廿五日藤森彌吾吉夫婦が牛馬を飼育するの愛冠の小屋に着し、同居して雪の溶けるを待つ。五月二十四日早朝発にて斗満に向う。愛冠には我小屋のみにて、夫《そ》れより斗満迄十二里間は更に人家無く、………其困難たるや言語筆紙の及ぶべからざるなり。………片山夫婦、藤森彌吾吉夫婦、西村仁三郎《にしむらにさぶろう》、谷利三郎《たにりさぶろう》、土人一名合せて七名、同夜九時※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、176−9]別第五十四号にある測量出張員の仮りに用いたるの小屋ありて此れに着す。………四五日にして小屋の木材を切り取り、樹皮を剥ぎて屋根とし、且つ四囲を構《かこ》い、或《あるい》は敷きて座敷とせり。………夫れより開墾して六月十八日迄に一反半を開き、燕麦《からすむぎ》牧草を蒔付《まきつけ》たり。
廿七日、仮馬舎《かりうまや》に着手して、七月一|日《じつ》出来あがりたり。
七月一日、又一|着塲《ちゃくじょう》せり。
八月十日、寛《かん》は餘作《よさく》を同伴して初めて来塲す。寛は餘作が暑中休業にて五郎同行|来札《らいさつ》するを以て、五郎を母の許《もと》に残し、同五日発にて牧塲に向う。落合迄※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車、夫れより国境の嶮《けん》は歩行し、清水にて一泊。夫れより帯広に出で、来合わせたる又一に面話し、一泊。高島農塲に一泊。利別《としべつ》一泊。足寄《あしょろ》にて渋田《しぶた》に一泊し、西村|氏《し》が傷を診《しん》す。翌日土人一名を案内として傭《やと》い、乗馬にて早発し、細川氏にて休み、後《ご》三時牧塲に着す。其実况は左《さ》に。
細川氏にて茶を饗せられて径路を通行し、「トメルベシベイ」にて十伏川《とつふせかわ》を渡る。河畔《かはん》に鉄道測量の天幕あり。一名の炊夫《すいふ》ありて、我牧塲を能く知る。
最も懇篤《こんとく》に取扱いくれたるはうれし。茲《ここ》にて弁当を喰《しょく》す。茶を饗せられたり。此迄《これまで》は人家無く、附近にも更に人家無しと。河畔に土人小屋あり。此れ鱒《ます》を捕《と》るなりと。此れより山間の屈曲せる処を通る。径路あるも、然れども予が目には知る事|能《あた》わざるなり。数回《すかい》川を渡り、峻坂《しゅんはん》を登り、オヨチに至る。此処《ここ》は最も密樹の繁茂せるの間をくぐるには、鞍《くら》にかじりつきても尚危く、或《あるい》は帽を脱せんとする事あり、或は袖を枝にからまれて既に一身は落ちんとする事|数回《すうかい》なり。且つ大樹の為に昼尚暗く、漸く案内者の跡を慕うのみ。頗《すこぶる》困苦するも、先ず無事に亦河を渡り、平坦の原野に出でたるも、また密林あり。(現今クンベツ)且つ行《ゆ》く処として倒れたる大樹ありて、其上を飛越え、或は曲り或は迂回する等《とう》は、迚《とて》も言語を以て語り筆紙を以て尽すべからざるあり。亦|一《いつ》の驚きたるあり、オヨチにては蝮《まむし》多くして、倒れ木の上に丸くなりて一処《いっしょ》に六七個あるあり。諸方にて多く見たり。其度毎《そのたびごと》にゾッとして全身|粟起《ぞっき》するを覚えたり。
平坦地を通り過ぐるの処に密林あり、湿地あり、小川あり。其|傍《かたわ》らに蕗《ふき》の多く生えたるあり。蕗葉《ふきのは》は直径六七尺、高さ或は丈余なるあり。馬上にて其蕗の葉に手の届かざるあり。試《こころみ》に携《たずさ》うる処の蝙蝠傘を以て比するに、其|大《おおい》さは倍なり。此れより川を渉《わた》りて原野に出でたり。(今の伏古丹《ふしこたん》)。行《ゆ》く事十丁ばかりにして湿地あり、馬脚を没し馬腹《ばふく》に至る。近傍の地には蘆《あし》を生じ、其高さは予が馬上にあるの頭《かしら》を掩《お》うあり。此れを過ぎ、東には川を隔てて密樹あるの山あるを見る。亦平坦の地に至る。西には樹木の生ずる山あり。北には樹木無く、平坦なるの高き地に緑草の繁茂するを見たり。更に能く凝視するに馬匹《ばひつ》をつなぐ「ワク」あるを覚えたり。故に偶然に此れ我牧塲なるかと思いつつ、更に北に向うて進むに、一《いつ》の広き湿地あり。馬脚は膝を没するも馬腹に至らず。此れを過ぎて次第に登り、平坦地に至る。少しの高低あるのみなる広く大なる原野あり。内に道路あり、幅六七尺にして十字形を為して東西に分れ、南北に分れたるを見たり。余り不思議なるを以て、かかる無人境《むにんきょう》にて此道路は何たるやを土人に問う。土人答て曰く、此れは関牧塲にして、馬の往来するが為にかくはなりたりと。爰《ここ》に至りては予は実にうれしくして、一種言うべからざるの感にうたれて、知らず識らず震慄《しんりつ》して且つ一身は萎靡《なえ》るが如きを覚えたり。此時たるや、精神上に言うべからざるの感を為すは、これ終身忘るる事能わざるべきなり。故に今日《こんにち》に於ても時々思い出す事あり。ああ此現状に遇するに於ては大満足たるや如何なる憂苦困難を重ねたるも、此れにて万難を打消すべきを感じたり。ああ世人は斯くの如きの実境を得る事を知らず、只空しく一身一家を固守するの人にては、予が此現状を得る事無き人に対して自ら誇るのみならず其人をあわれに思うなり。尚牛馬の多く群れたるを遥に見つつ河を渉《わた》る。(斗満川)。川畔《かわばた》に牛馬の脚痕《あしあと》の多きを見る。新《あらた》に柵を以て囲めるを見たり。ここに至りて尚うれし。進んで少し登りて行《ゆ》くに、樹間に小屋を見る。喜んで進んで着するに、片山夫婦谷利太郎は大に喜んで迎えらるるは実にうれし。然るに奇遇にも土人は鱒|弐尾《にび》を捕りたるを以て、調理して晩飯を喰《しょく》して眠《ねむり》につけり。此夜は恰《あだか》も慈母の懐に抱かれたる心地して、大安堵せり。
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小屋は四間《しけん》に六間にして、堀立柱《ほりたてばしら》に樹皮を屋根とし、草を以て四囲を構え、草を敷きて座敷とし、外《ほか》に便所一つあるのみなり。片山夫婦
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