たるを以て殆んど痲痺するが如きに至れり。全身も弱りて倒れんと欲し、耐忍する事能わずして草上に座して休息するに至れり。然るに休息するによりて全身は俄に安静なるに至れるが故に、小虫は此れにて四囲より群集して亦呼吸を妨げ、或は眼胞に向うて来りて払えども更に散るも亦来り尚群集を増加するによりて、此れにも耐忍する事能わずして、依て叺を脊負《せおい》て袋を前にかけて歩行するも前の如く困苦にて、僅に三十間或は四十間ばかりにて休息するが故に、六七町なるの帰路は一時間余を経《ふ》るに至れり。漸くにして小屋に帰りて直に横臥して言語する事も出来ざるに至れり。少時間は発熱するが如きを覚えて、精神も或は失するが如くにして休息す。少《すこし》く眠るが如くにして、漸く本心に復したるを待って、或は湯を呑み薯を食するに其|味《あじわい》の言うべからざるの美を覚えて、且つ元気つきて、夫《そ》れより採りたる蕨蓬を選びわけて煮るには半日《はんじつ》を費す。故に午前には出でて採り、午後には煮て干しあげる事に当れり。依て日々に終日労するには予が老体には最も労苦たり。午後には火をたき湯をわかすには、炎熱中には随分大なる困苦たり。故に日中には労に当り自らも大なる困苦を覚ゆるも、少しも屈せずして実行するには、恰《あだか》も地獄の苦みもかくやあらんと思うのみ。然れども予《あらかじ》め决する事たるを以て、生活する間は耐忍するとせり。然るに夜《よ》に入《い》り臥床《がしょう》に就く時は、熟眠して快き夢ありて、此れぞ極楽界たるを覚えたり。故に予は地獄と極楽とを一昼夜の間に於ける実地に於けるを感ぜり。依て自ら心に誇る処あり。ああ予は甞《かつ》て徳島に在るの時に於て、七十歳を以て古稀と自ら唱えて、僅少なる養老費あるを以て安堵して孫輩《まごら》の顔を眺めて楽みとし、衣食住の足れるを満足とする事に至るのみに止《とど》まりて、此牧塲を創起して意外の金員を消費しつつ、かかる困苦に当る事無くんば、かかる毎夜の極楽園裡の熟眠にて快楽ある夢をみる事もあらざるべき乎と熟考する時は、ああ予は大幸福と云うべき乎、或は大不幸と云うべきかと、自ら一種言うべからざるの感あり。然れども人たる者は生活間は苦んで国に対し亦世に対するが為めに労苦を実行するは此れ人たるの本分なりとする時は、或は不幸にはあらずして却て大幸福なりとすべく、予は大満足として、生活間に於て地獄と極楽との真味を最も能く知れるを以て大に誇る処也。
六月二十七日、土人イカイラン熊の子二頭を馬の脊《せな》に載せて持来《もちきた》れり。此際は蓬と蕨とを採るに忙《いそがし》く、日々干し面白く、働くには頗る困難なるも、創世記を読みて古今同く労苦と厄難と人害とは此れ創業の取るべきを感悟して最も満足せり。
此際には豆類|甘藍《きゃべーじ》等に兎と鼠と日中にても群を為して来り食するや実に驚くのみ。依て百方其害を防ぐに忙きも、其効を見る事能わざるなり。
七月三日、一奇遇あり。一官吏来り泊す。伴《ばん》氏と告ぐ。然るに予は先年|伴鐵太郎《ばんてつたろう》なる者を知れり。故に伴鐵太郎なる者を知るやと問うたり。然るに伴鐵太郎の二男なりと。予は甞《かつ》て長崎に在りし時、幕府の軍艦にて咸臨丸《かんりんまる》は長崎滞泊中は該艦に乗組の医官無くして、予は臨時傭として病者及び衛生上に関する事を取りたる事あり。其際伴氏は上等士官として艦長の代理たり。其際には最も親《したし》く且つ予と年齢も同《おなじ》きを以て最も親くせり。爾後政府も代り、数十年《すじゅうねん》を経て互に其音信を為せる事ありしも、然るに偶然に同氏と面会するに、かかる山間なる僻地に既往を伴氏の実子と語る事あるの奇遇を感じたり。
七日、三角測量吏吉村氏は※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、201−1]別山に三角台を建《たつ》るが為めに来泊す。
此際道路新設にて、請負人堀内組病者多しとて、藤森彌吾《ふじもりやご》氏を以て頼み来れり。此れ我牧塲に向うて道路新設たるを以て、喜んで諾す。
此際土方人夫は逃げて北見に走る者多く続いて来り、予が一名にて留守するに当りても来り強て喰物を乞わるる事あり。或は川をわたり、或は裏口より突然に来《きた》るあり。或は跡より追い来るの人あり。其混雑なるは実に一種の世界たるを覚えたり。
八月廿七日、初雪あり。
九月十六日、堀内組病者診察として愛冠《あいかっぷ》に行くに、道を曲げて「ニオトマム」に馬匹を見んが為めに、「ヤエンオツク」を同行せり。王藏が番小屋に泊す。傍らに土人の小屋を立ててヤマベを捕るあり。其の小供は裸体にて山中をかけ走るを見る。ヤマベを釣り、味噌汁に五升芋とヤマベを入れて煮たる汁を喰す。最も妙味あり。且つ予は倒れたる枯木《こぼく》の丸太橋を彼方《かなた》此方《こなた》と小川をわた
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