にて包み、頸囲《くびのまわり》も密に巻き、手足に至る迄少しも隙無き様に働き着用の服類を用意して此れを用ゆる事と。丁寧に教えくれたるも、予は如何にも我慢をして小虫を忍ぶべしと強情を主張したるも、然れども実際に当ては迚も耐《たゆ》る事能わざるを以て、片山夫婦にわびして服従せり。依て片山夫婦に大に笑われたり。夫《そ》れよりは彼を着用する事とせり。其使用は面部は只眼を出《いだ》すのみ、厚き木綿にて巻き二重《ふたえ》とし、頸部も同じ薄藍色木綿の筒袖にて少しも隙無き様にして、且つ体と密着せしむ。腕にて筒袖口をくくり、隙無き様にして、脚には紋平《もんぺい》とて義経袴の如くにて上は袴の如く下は股引の如きものを穿き、足袋をはき、足袋との隙をくくるに厚き木綿を用ゆるなり。肌と着類の間に少しにても隙ある時は、小虫は此れより刺すを以て、隙の無きに注意するなり。此《かく》の如く着用するの貌《かお》を自らは其全体を見る事能わざるも、傍人の有様を見て、其昔宇治橋上に立ちて戦《たたかい》たる一來法師《いちらいほうし》もかくあらんかと思われたり。
かかる着用にて、炎熱の日に畑に出でたるには、炎熱と厚着の為めに全身は暑さを増すのみならず、汗出でて厚く着重ねたる木綿|衣《ぎもの》は汗にて流るるが如きに至るを以て、自《おのずか》ら臭気を発して、一種の不快を覚ゆると其|苦《くるし》さとにて、一日《いちじつ》には僅に三四時間の労働に当るのみ。実に北海道の夏は、日中は最も炎熱甚しく、依て此厚着にて労働するが為めには実に労《つか》るる事多し。且つ畑の傍《かたわら》にて朽木《くちき》を集めて焼て小虫を散ずるとせり。故に少しの休息間にも、火辺にありて尚炎熱に苦むなり。
予は初めは和服にて蕨採りに出でし際に、小虫を耐忍する事|一時《ひととき》ばかりなるも、面部は一体に腫れ、殊に眼胞《まぶた》は腫れて、両眼を開く事能わず、手足も共に皮膚は腫脹《しゅちょう》と結痂《けっか》とにて恰《あだか》も頑癬《かさ》の如し。為めに四五日は休息せり。且つ頭痛と眩暈《めまい》とにて平臥《へいが》せり。
小虫を防ぐの着類は揃いて、皮膚及び眼胞の腫れも※[#「冫+咸」、190−5]じたり。依て蕨採りとして出掛て、藁叺《わらかます》を脊負い、手には樹皮にて作りたる小籠を持ち、草鞋はきたり。然るに小虫は四囲より集り、只眼のみあきたるにより、為に眼囲《めのまわり》に向て集るを以て、絶えず手にて払わざる時は尚多く集りて耐ゆべからず。依て手にて絶えず払いたり。然れども右手《めて》に籠を持ち、左手《ゆんで》にて蕨を採るゆえに、小虫を払う時は蕨を採る事能わず。故に時々は籠を手より離して、地上に置く事あり。為めに蕨を採る事少きを以て、翌日より籠に紐をつけて頸にかけて出懸たり。依て都合よく片手に蕨を採り、片手にて絶えず小虫を払いたり。此れにて蕨は多く採りて、籠に満《みつ》れば叺にうつして脊負たり。然れども後《うしろ》には叺を脊負い、前には籠をさげて、体には厚き木綿着類を重ねたるゆえに、総身の重きと且つ前後にぶらさげたるゆえに、慣れざる老体には実に苦き事多きも、日々勤めて四五町を隔てたる処にて採りたりしも、追々耐忍力も出来且つ慣れたるを以て多く採る事となれり。依て尚多く採らんとの希望を起し、八九町も隔りたる所に多くあるを知り、且つ片山ウタ谷利太郎は其近き畑にて仕事をするを以て、其処《そこ》に出懸けたり。然るに蕨は多く採りて叺に入れたるに、僅に六七貫目たるも、予が老体には重きに耐えざるを以て、地上に叺を置き専ら蕨を採りたり。然るに蕨の多く採れるを喜びつつ、小虫を払うを怠れり。故に小虫は多く集りて恰も煙の内にあるが如くにて、予が一身の四囲を最も濃密に集りて、且つ眼も小虫の為めに塞《ふさが》り、十分に見る事能わざるを以て、小虫の此群集の内を脱せんとして、疾行して諸方に歩を転ずるも、其小虫の群集の内を脱する事能わず。尚眼は塞りて視る事不分明となり、置きたる叺を見出す事能わずして苦めり。尚如何にしても叺を見出す事能わざるを以て、無拠《よんどころなく》大声を発して遠き畑に在るの利太郎を呼びて、漸く蕨を入れたる叺を見出したる事あり。
此際は蕨のみならず、蓬《よもぎ》も多く採りたり。其時|直《すぐ》に用うる時は、黍《きび》と共に蓬を以て草餅として喰《しょく》する時は、珍《めずらし》く味《あじわい》あるを何《いず》れも喜んで喰するによりて、大に経済上に於て益あり。予は別《わけ》て草餅を好むを以て日々の喰料とせり。亦久しく貯えて長く用ゆるには、煮て干し上げて貯うる時は、何日《いつ》も草餅を喰せんと欲する時に臨んで草餅と為す事を得るなり。亦蓬の少き地方に贈物として大に親睦を取るの事となるあり。当地の蓬は殊に大《おおき》く且つ多く、採り易きを以て
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