底的壞滅こそ死である。
かくの如き本質を有する死は、すでに述べた如く、もとより直接的體驗の事柄ではない。それは全體としての自己を理解しようとする主體が、自己の存在の本質的性格として感得する事柄である。吾々が生きる限り死には出會はぬゆゑ、死はいつも可能性としてのみ存在する。しかもそれが主體の自己實現の一契機として主體の自由に基づく可能性ではなく、實在的他者との關係交渉に根源を有する可能性である點に、それの本質的特徴は存する。時間性はすでに主體自らの好むと好まぬとに關はりなくそれの存在を支配する必然的運命的現象であつた。時間性の徹底化である死においては、この必然的運命性も亦徹底的となる。それは主體の最深最奧の本質に喰込み、それの全き存在と自己とを徹底的に破壞するいかにするも遁がれ難き運命の意義を擔ひつつ、主體の本質的性格を形作る可能性として傾向として與へられるが故に、理解する外なき事柄覺悟する外なき運命である。又かくの如きものであるが故に、或は理論的に又は實踐的に、或は解釋により又は行爲により、囘避し得る事柄であるかの如き態度を取る餘地は殘されてゐる。死は時間性の徹底化として根源的體驗に
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