に聯關を設定する故、前者即ち實在性も亦一種の觀念的内容となるが、これは何事によらずすべて體驗へ又根源へと遡らうとする際に起る困難であつて、もはや反省の立場において解決し難き問題である。それは生の基本的事實として、身自らその中にあつてその事を生きる外に途がないのである。吾々がすでに自己認識に關して出會つた困難、即ち隱れたる實在する主體と顯はなる觀念的主體との同一性の困難も、立入つて見詰めれば、結局同じ困難であり、皆等しく吾々が主體の先驗的同一性と名づけたものに還元される。それは根源的體驗と反省とにおける主體の同一性であり、實在する主體と客體面に觀念的聯關として表現される主體との同一性であり、從つて又認識する(實在的)主體と認識される(觀念的)主體との同一性でもある。かくの如く反省そのものがすでにこの同一性を前提する故、それは理解し得る事柄ではなく、その中に生きつつ體驗される生の基本的事實なのである。
 さて囘想は無に歸したる内容の再現である。その内容の實在的有は無の中に葬り去られたるままもはや呼び返へすすべがない。存在は觀念的存在として再現を見る。このことはいふまでもなく反省の働きによつ
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