とは根源的生が潛在的にすでに反省を内に含むことによつて可能となるのである。すなはち、反省は全く新しきものの突然の發生ではなく、すでに隱然具はつてゐたものが、表面に現はれ出で獨立性を獲得することによつて、固有の本質を自由に發揮することに外ならぬのである。すでに述べた如く、いかなる生も現實的状態においてはすでに何等かの程度において文化的であり又體驗の性格を具へてゐる。それはいかに朧げにせよ氣附く又知るといふことなしには行はれぬ。尤もこのことはなほ自然的生の闇みの中に囚はれてゐる。それが解放されたものが反省に外ならぬ。解放の動作として反省は根源的生との聯關を前提する。この聯關が維持されるが故に復歸も亦可能なのである。今かくの如き復歸を「囘想」(又は記憶)と名づけるならば、認識は囘想によつて成立つのである。尤もそれは認識が成立つて後の、從つて認識の一種としての、囘想とは異なつて、更に根源的なるもの認識そのものの成立根據をなすものである故、カントの用語を襲用すれば、「先驗的(transzendental)囘想」とも名づくべきであらう。しかるにこの囘想は更に根源的體驗と反省との聯關從つて兩者におけ
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