イ富さとを發揮し得ることによつて實質的にも要求される。「永遠」は宗教に本來の郷土を有する觀念である。このことによつて「時」乃至「時間性」の取扱ひ方も一定の方向を指し示される。表象の内容をなすだけの又は單なる客觀的存在者として理論的認識の對象をなすだけの永遠は、宗教においては殆ど無用の長物である。このことに應じて、吾々の論究は時乃至時間性に關してもそれの特殊の形に重點を置かねばならぬであらう。これは時と永遠との相互の密なる聯關よりして當然期待される事柄である。すなはち、吾々は體驗の世界に深く探り入つて、吾々自らその中にあり又生きる「時」、即ち生の「時間性」の本來の姿を見究めねばならぬ。
 吾々は日常生活においてすでに、世界のすべての事物・存在及び動作を支配する一種の秩序の如きものとして、又それに屬することによつて吾々の認識が萬人に共通なる尺度と法則とを得るものとして、時を表象し理解する。しかしながらかくの如きは決して時の根源的の姿ではない。それは、われわれ自らその中にあつて生きる所のものを、われわれの前に置き外《そと》の世界に投射して客體化したものであつて、すでに反省の作用によつて著しく
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