者性の契機を強調しつつ、兩概念の適用の領域を特に區別することによつて、別つべきを別ち明かにすべきを明かにしようと思ふ。
 前にも述べた如く「表現」は全く主體の勢力範圍内に留まつてゐる。それは顯はとなつた主體の自己であり、動作として解すればこの自己を顯はにする動作である。そこになほ殘留する他者性は客體のそれに過ぎず、從つてむしろ可能的自己性を本質とする。尤も主體は隱れたる中心として儼然存立するに相違ないが、表現の主體である限りそれは完き自己を表面に現はし盡し、かくて自滅を遂げることによつてはじめて行くべき處に行き着くのである。幸ひにかくの如き自滅を免れるとしても孤立は到底避け難き歸結である。文化においても主體は事實上實在的他者との關係交渉を全く離れることはない。しかしながら文化が文化である限り實在的他者は本質上不用である。ここでは主體の直接の對手は、實在的他者に對して遊離状態に置かれたる客體であり、主體の自己を顯はにすることにそれの存在の意義は盡きる。このことは客體の基體をなす實在者が「物」と稱せられる場合にのみならず「人」と名づけられる場合にも等しく當嵌まる(二)。文化においては我と他
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