直觀する場合の見るでさへもなく、主體と主體と人格と人格とが、双方を結び附けつつ同時に隔て遮るであらうあらゆる中間的媒介的存在者を排除して、直接的なる交はりと共同とに入り乃至留まる場合の「見る」である。あらゆる文化的活動はいふに及ばず信仰と希望とさへも消え失せてただ獨り殘る完全なる愛の人格的共同が譬喩的にしか呼ばれるのである。尤もかくの如き人格的共同においては、表現と象徴とは全く一に歸する故、一切は顯はとなり透明となり、主體は一切を通じて一切を直接に知るであらう。譬喩的表現はいふに及ばず、あらゆる思惟も推理も姿を消して完全なる知り方としての直觀のみ愛の共同の一契機としては殘るであらう。さて、かくの如き一切の一切との完全なる共同においても創造者と被創造者との別は消え失せぬであらう。それどころか、すでに述べた如く、この別が儼然として正しく明かに存立することが人間的主體の眞の有限性であり、かかる有限性においてのみそれの永遠性は成立つのである。死の恐れも罪の悔いもなく、しかも希望と信仰とさへも時間的世界に置き棄てられたこの處では、有限性は受ける惠みへの感謝と充ち足れる賜物の喜びとして顯はになりつ
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