己の責任を遁れようとする卑怯の振舞でさへある。總じて輕々しく死を決するは、他者に委ねらるべきものを自ら處理しようとするものであつて、神聖者に對する冒涜である。之に反して、神聖者の言葉・神の召しに應じての、責任と本分との自覺よりしての決死は、眞の永遠の閃き、神聖なる愛に答へる純眞なる愛の輝きである。ここまで達すれば、人は更に一歩を進めて死そのものをも惠みとして受けるであらう。罪の赦しの背景のもとには、生がすでに惠みであり、死は又更に惠みである。滅ぶべきものが滅びるのは、生くべきものが生きるための前提として、無より有を呼び出す永遠者の發動でなくて何であらうか。

      六 死後の生と時の終りの世

        四七

 しかしながら罪の赦しにも拘らず、時の眞中における永遠の啓示にも拘らず、罪も時もなほ嚴として存在する。神の惠みは動いてはゐるが、なほ完き支配には至らぬ。これはなほ安住を許される究極地ではない。それ故最後に罪そのもの時そのもの從つて死そのものが完全に克服されねばならぬ。これこそ永遠の完全なる到來純粹なる顯現である。吾々は今は信仰の平らならぬ鏡に歪められて映る永遠の姿に
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