。罪惡はこの意味の責任に對する違反として罪責であり、更に神聖者に對する反逆である。罪責の自覺は「悔い」(悔悟)と呼ばれる。これは時間性を全く克服したる永遠者との關係においてのみ成立つ事柄である。ここでは過去の行爲も單に善處すればよき事柄ではなく、主體が全き自己をもつて責任を負はねばならぬ事柄となる。かくて罪責は必然的に悔いとなる。この悔いに神の側において對應するのが罪の赦しである。否それどころか、悔いそのものはすでに罪惡への沒頭よりの解放を指し示すものとして、それ自身すでに神の救ひの業であり、罪の赦しの基礎の上に成立ち、むしろそれと表裏一體をなす。神に關しては、赦しを悔いの報酬となすは本末顛倒である。赦されたればこそ悔い得るのである。
ここよりして死も新たなる意義を發揮するであらう。死は、すでに論じた如く、時間性の徹底化であり、他者を離れ單獨化しつつ自己を主張する主體の必然的に陷る運命である。かくの如き自己主張が罪惡であり、從つて死はまた罪の報いである。そこまで達して罪の恐るべき意義は徹底する。しかしながらこの生の留まる間は死は到來する事實ではなく、覺悟のみの事柄である。覺悟する死は
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