乃至全く類を異にする實在者の象徴を兼ねるといふやうな多義性・不連續性は存在しない。しかるにかくの如き事態は宗教的象徴の場合においては發生するのである。尤も神の愛が單純なる事實となり永遠性のみが純粹に存在の性格をなすに至つたと假定すれば――かくの如き事態は後にも説く如く宗教的主體の切なる希望の對象であるに相違ないが――假りにこの事態が實現されたとすれば、一切の存在は、直接的にしかも殘る隈なく餘す蔭もなく、神聖者を顯はにする象徴となるであらう。そこでは、現實の世界においては避けられぬ或る程度の間接性、即ち觀念と觀念との間に存する多義性、一がそれ自らでありながら更に他と聯關しつつ他を表現し又は他によつて表現され、更にいづれも内容的他者でありながら同一自己性の表現としての性格を擔ふといふ程度の多義性さへも全く跡を絶つ。かくの如き純粹なる徹底的なる共同は宗教的用語が「神を見る」と名づけるものである。しかしながら現實の生はこれとは正に反對の事態を示してゐる。神聖なるものは現實の世界においては徹底的に、いはば二重に二次元的に、隱れたるものである。ここでは一切の存在は時間性を本質的性格として持ち、從つ
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