。しかしながら信仰のこの本質は、人間の現實的生が全く時間性の支配の下にあり永遠性は單純なる事實として實現を見てゐないことによつて、特異の發現を遂げねばならぬ。このことは勿論、神の愛が單純なる事實として何人の目の前にも現前してゐるのではないといふことと、密接に聯關する。吾々は今この點に考察を向けようと思ふ。
神の愛が單純にさながらに事實となつたとすれば、永遠性のみあつて時間性のなき存在が現はれるであらう。しかしながら人間の現實的生は飽くまでも自然的生の上に築かれ飽くまでも時間性を本質的性格としてゐる。從つてこの世の愛はエロースであり自己實現であり活動である。しかも、この根も幹も枝も葉も人間的なるものが、新たなる地に培はれることによつて、かなたの世にはじめて咲き出るであらう全く思ひがけもなき變り種の蕾を結ぶに至る。しかしてこの「不思議」この「奇蹟」は神の側よりいへば啓示として人の側よりいへば信仰として行はれるのである。「啓示」は隱れたるものが顯はになり超越的なるものが内在化することである故、廣き意味においてはあらゆる象徴は啓示と呼びうるであらう。實在者は他の實在者をわが内に容れることなく
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