誘惑を斥けていつも宗教的體驗の語る所に耳を傾けるを怠つてはならぬ。しかしてかくの如き態度を取る時吾々は創造が決して神の單なる自己主張自己實現の動作ではなく、他者本位の愛の行爲であるを解するであらう。神においては愛と創造とは全く同じ事柄の二つの異なつた見方呼び方に過ぎぬといつても過言でないであらう。吾々日常の經驗に徴するも、純眞なる愛は自己省察によつては知り難きものである。今假りに吾々自身アガペーまで昇り得たとして――かくの如き自信ははじめより自惚自己欺瞞の危險に晒されてゐるが――しか假定して、吾々の自己省察の目の前に先づ浮び出るものは、活動の性格を帶びた自己實現の姿である。自己省察によつて知られる愛はエロースなのである。ただ他者が愛の主體であり、吾々自らが愛せられるものとして、身にしみじみと愛の力を感ずる時、吾々は人間にあり得る限りの眞の愛の淨き閃きに打たれる。人の愛と同樣に神の愛に關しても、吾々は愛せられる者として即ち宗教的體驗において、はじめてそれの何ものかを知るのである。宗教的體驗を離れて神の愛そのものを直接に認識しようとすれば、今假りに人間の認識能力にこの不可能事が許されるとし
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