を意味する外はないであらう。何ものをも燒き盡さねば止まぬ神聖性の猛火の中に灰燼に歸した主體は、いかにして生の中心・働きの出發點としての實在性・主體性を保有乃至獲得し得るであらうか。
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(一) 「宗教哲學」四二節以下參看。
(二) K. Barth (”Kirchliche Dogmatik.“I, 2. S. 425 ff.) は愛はいつも對手(〔Gegenu:ber〕)對象(Gegenstand)をもつ、即ちいつも他者(der Andere)を愛すると説いて、その限り、正しき理解を示したが、舌の根の乾かぬ間に ander といふ語を無造作にも andersartig に置き換へてゐる。すなはち、神が人の愛の對象である以上、その對象は對象であるが故に主體である人間とは全く類(性質)を異にする存在者でなければならず、逆に人間は神と全く類(性質)を異にする存在者即ち罪人でなければならぬ、といふのである。驚くべき殆ど無鐵砲ともいふべき論の立て方である。尤もややもすれば論理よりも修辭によつて思想の力よりも感情の勢ひによつて動く癖のあるこの神學者においては、このことは或はむ
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