思想においても、それと神の直觀との關係は、それが或は後者の前階であるかの如く或は後者を包含するかの如く幾分の不明瞭を留めてはゐるものの、極めて親密であつたことは爭ふべくもない(四)。スピノーザの amor dei intellectualis(神の知的愛)の如きも最も傑出した一例として擧ぐべきであらう。
 しかして、哲學における純粹觀想が文化的生の本質をなす自然的生よりの解放の徹底である如く、哲學の本質をなす純粹客體としての眞理への愛も亦文化的エロースの徹底化である。エロースは對手の實在者との共同を觀念的存在者をして媒介せしめる。かかる媒介者こそそれにとつては直接的交渉に立つ他者なのである。今自然的生との聯關を斷ち切り從つてあらゆる土臺と支柱とを取除いて、直接的交渉者の獨立性を設定し貫徹したとすればどうであらうか。そこに現はれる姿は純粹客體との共同としてのエロースの外はないであらう。時間性よりの離脱はかくの如き飛躍上昇を要求するであらう。この點に關してもプラトンは(「饗宴」篇において)示唆に富んだ先蹤を遺した。愛は先づ自然的實在者即ち人又は物、特に人に向ふ。その際媒介をなすは美である。
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