ィいて將來に向ふ、主體の動作を根源的體驗より遠ざけようとしたことも、今それに聯關する特色あるかれの形而上學的所信を考慮の外に置くならば、文化的時間を第二義的のものとする點においてたしかに正當である。又同樣にかれの形而上學を離れて考へれば、かれが時を「持續」において成立つとしたことも又時における内容の融合滲透を説いたことも、空間的に表象される客觀的時間より特に體驗的時間を區別し後者の根源性を強調しつつ、それの延長性それの内部的構造を主張したものとして、識見の卓拔を思はしめる。しかしながら彼が根源的體驗における時より將來を抹殺したことは勿論謬見である。そのことの結果として「持續」は過去と現在とのみより成立つものとなる。この場合過去は正しき順序を顛倒して現在に先立つもの從つて後者に對して存在を補給するものとなる。すなはち過去の内容は現在のそれと融合滲透を遂げつつ持續換言すれば包括的現在を成立たしめる。過去の内容は記憶に俟つ外はない。かくては持續としての時は文化的時間より將來を取除いたものに過ぎぬであらう。さてすべてこれらの事どもはいづこに源を有するであらうか。いふまでもなく、主體が單獨孤立の
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