高次的實在者へと、還元しようとする。しかるにそのことは超越なしには不可能であり、超越は高次的客體によつてなされねばならぬ故、結局は内在的形而上學も超越的形而上學によつてのみ形而上學の資格を得るのである。それ故觀念主義の形而上學以外に形而上學は無いといつても過言ではないであらう。さて觀念的存在者は、純粹の本質においては、殘る隈なく顯はなるものとして、何ものかがその中に入り來るを拒む隱れたる中心、實在者としての中心、を全く缺く故、それを直接に實在者の位に据ゑることは本來禁じられてゐる事柄である。しかもプラトン以來數多くの大思想家たちがこの許されぬ道に踏入つた事實は、實在者との交はりによつてのみ生は成立つこと、從つて實在者への希求は人間性の最深最奧の本質に根ざすことを教へる。究極まで押詰めれば、高次的實在者において滿足を見ようとするはもと宗教的要求である(三)。このことの立入つた論述はここでは割愛せねばならぬが、その要求が觀念主義の形而上學的宗教によつてではなく人格主義の愛の宗教によつてのみ充たされる如くに、永遠性への憧憬もここではつひに滿足を見ずにをはらねばならぬであらう。
 すでに有神論
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