ウれ、ただ客體相互の聯關が終極及び完成へと連れ行かれる。今ここに吾々の問題となるのはこの種の形而上學である。尤もすでにしばしば論じた如く、無終極性と不完成性とは客觀的實在世界の本質的性格をなす故、何らかの形及び程度において純粹なる觀念的存在への上昇なしには、即ち觀念論的形而上學の協力なしには、いかなる形而上學も成立不可能である。ただ高次的實在者を直接に客觀的實在世界と結び附ける點、通常行はれる用語を以つてすれば、それの内在性を説く點に、かかる「實在論的」形而上學の特徴は存するであらう。さて高次的實在者として説かれるものは、或は世界的秩序或は世界的理性或は攝理などであるが、客體の實在化は、すでに説いた如く、それの擬人化を意味する故、それらは結局「神」の觀念によつて包括統合され、それにおいてはじめて明瞭なる徹底的なる表現を見るであらう。その場合神の觀念は宗教における同じ名の觀念とは、絶對的實在性を意味する限り一致し、從つて宗教的觀念と何らかの結合を遂げる可能性は與へられてゐるが、ここではそれは客觀的認識の對象として成立つのである。すなはちここでは神は、客觀的實在世界の觀念的聯關――秩序・理
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