oを遂げたのは謂はれあることである。明かにそれと言ひ表はされたる思想乃至論證の形においては吾々はそれを啓蒙時代の思想家達、カント、レッシング、ロッツェ等において見るが、氣分乃至感情としてあこがれ乃至信念としてはそれは文藝復興期以來到る處に躍動してゐる(一)。後の世に語り繼ぐべき朽ちぬ名を立てるといふが如き最も通俗的なる汎人類的なる信念よりして、カントの「理性」フィヒテの「自我」ヘーゲルの「精神」などの諸思想に至るまで、文化的主體の價値と優越性と威力とが感ぜられ認められ信ぜられる處には、目的論的論證は、胚芽としてなりとも、すでに存するといふべきである。
かかる思想の多種多樣の諸形態を歴史の觀點よりして殊に類型論的に取扱ふは興味深き事柄ではあるが、もとより吾々の任務より遠ざかる。吾々の任務はここではそれらの根柢にあつてそれらをして不死性乃至無終極的存在の觀念への方向を取らしめる基本的思想を、生の根源的性格よりして理解し批判するに存せねばならぬ。さて、目的論的論證は文化的主體の基本的性格である自己實現及び活動より出發し、それの完成、即ち主體の終極目的の實現、のために必要なる制約として生の無
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