無であらしめ壞滅の中に葬る絶對的他者の同じ働きが、又それにそれの有するあらゆる存在を、殊にそれ自らの中心と獨立性とを、與へるのである。「無より」といつて無を先行せしめるのは、他者との共同においてのみ成立つそれの性格が無の克服の土臺の上に成立つこと、從つて無を止揚されたる契機として内に含むことを意味するに外ならぬ。言ひ換へれば、創造によつて有も無も一擧に成立つのである。ただ無は有の中に滲込みそれを稀薄にする成分從屬的成分に過ぎぬ。無の克服によつて絶對者は人間的主體に主體性を與へつつ、しかも依然自ら絶對性に留まるのである。否それどころか、絶對者は無とそれを克服する有とを一擧に成立たしめることにおいて、又かくして成立つた共同においてのみ絶對者なのである。今この事態を自然的生の場合と比較するならば吾々はそれがいかに重大なる意義を有するかに驚くであらう。自然的生においては有は無を克服されたる契機としてうちに含むことなく、即ち無を經由することなく、直接的にまつしぐらに自己を主張したればこそ、主體は他者とただ衝突するのみ、主體の存在と他者の存在とは共存に達し得ず、そのことの歸結として主體はわが外へ無へと押出され陷入れられたのである。ここでは有は無に先行した。そのことは有は無に歸し自己に留まり得ぬことを意味した。しかるに今や創造は事の順序を全く顛倒することによつて主體を壞滅より救ふのである。無を外にではなくはじめより内に有する主體のみ自然的生と從つて時間性とを克服して眞實の愛に生き得るのである。
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(一) パウロ、ロマ書四ノ一七。邦語譯に「無きものを有るものの如く呼びたまふ」とあるは少なくも不穩當である。原語の”〔kalountos ta me_ onta ho_s onta〕“において 〔ho_s onta〕 は古代の解釋家もすでに説いた如く 〔ho_ste einai〕 の意に、即ち「無より有を呼び出す」の意に解すべきである。かかる語法が古典ギリシア語においてもすでに存在したことは、いづれの文法書にも記されてゐる事柄である。――アウグスティヌスについては特に Confessiones. XII, 7 參看。――パウロにおいて「無よりの創造」が宇宙論的觀點よりではなく、神の愛の宗教的體驗の觀點よりして解されてゐることは特に注目に値ひする。
(二) 哲學においてはすべての理論的形而上學と同樣に世界創造の思想が甚だ貧弱な根據しか有せぬことは今更ら取立てて言ふまでもない。
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        三七

 創造において人間的主體は神の愛を體驗する。我にとつて絶對的他者である神は、しかも我に近寄り接觸し、否、我の存在の最深最奧の中心にまで入込んで、我を根本より改造する。接近を嚴禁する神は、いはば自らその禁を犯し自己を抛棄して、他者との滅びぬ共同を設置する。この共同は何ものか又何事かによつて媒介されるのでなく、何等かの理由や目的によつて制約されるのでもなく、自己目的であり無條件的である。共同は共同のために共同によつて成立つのである。この共同の設置こそ創造である。人はこれを理解しようとして、これをいくつかの要素又は契機に分析しそれらの間の聯關や秩序を説くであらう。しかしながら、前にも述べた如く、かくの如きは、あらゆる時間性を超越した神の動作を時間性の制約の下に立つ人間的文化的生の型に嵌めて表象するのであつて、吾々はこれによつて恰も神の本質の客觀的理論的認識に達し得るかの如き錯覺に陷るを常に警戒せねばならぬ。すなはち吾々は合理主義の誘惑を斥けていつも宗教的體驗の語る所に耳を傾けるを怠つてはならぬ。しかしてかくの如き態度を取る時吾々は創造が決して神の單なる自己主張自己實現の動作ではなく、他者本位の愛の行爲であるを解するであらう。神においては愛と創造とは全く同じ事柄の二つの異なつた見方呼び方に過ぎぬといつても過言でないであらう。吾々日常の經驗に徴するも、純眞なる愛は自己省察によつては知り難きものである。今假りに吾々自身アガペーまで昇り得たとして――かくの如き自信ははじめより自惚自己欺瞞の危險に晒されてゐるが――しか假定して、吾々の自己省察の目の前に先づ浮び出るものは、活動の性格を帶びた自己實現の姿である。自己省察によつて知られる愛はエロースなのである。ただ他者が愛の主體であり、吾々自らが愛せられるものとして、身にしみじみと愛の力を感ずる時、吾々は人間にあり得る限りの眞の愛の淨き閃きに打たれる。人の愛と同樣に神の愛に關しても、吾々は愛せられる者として即ち宗教的體驗において、はじめてそれの何ものかを知るのである。宗教的體驗を離れて神の愛そのものを直接に認識しようとすれば、今假りに人間の認識能力にこの不可能事が許されるとし
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