務を超えたる、しかも甚だ困難なる課題となるであらう。吾々はただ當面の問題に必要なる程度に考察を限らう。客觀的實在世界の範疇のうち最も重要なるは實體性と因果性とである。實體性は、上に述べた所より直ちに推測し得る如く、畢竟主體性に外ならぬ。因果性は客體間の聯關意味聯關が實在的聯關に變じた場合に生ずる。すなはち、二つの客體乃至客體群が各別々の實在的中心の表現たる意義を擔ひつつ相聯關する場合には、そこに因果關係が成立つ。それは主體と實在的他者との關係に象られたるものである。この關係において主體は生の中心として外へ向つて働きつつしかも外より働きかけられる。能動性と受動性とは自然的生における主體の二重的性格をなす。そのことに應じて客觀的實在世界においては實體は互に能動者であり又受動者である。因果關係は相互作用として成立つ。客觀的世界像は人間の姿に象られて成立つといつても過言ではないであらう。
 尤もこれは客觀的實在世界が實在的である限りにおいて起る事態である。吾々は認識の實在的妥當性が自然的生への或る程度の復歸によつてはじめて可能となるを見た。しかるに自然的生は前後左右を顧みることなしに他者へとまつしぐらに突進する。それは認識の本質をなす觀想とは正に正反對の性格を持つ。心理的に言ひ表はせば、知性よりはむしろ意志乃至衝動として働く。かくて吾々はここに客觀的實在世界の認識の二重的性格に特に注意を向けねばならぬに至る。觀想そのものの本來志向する所より言へば、これは克服さるべき事態である。自然的生の名殘りを出來るだけ稀薄にすることによつて、可能ならば純粹客體へまで昇ることによつて、認識本來の志向ははじめて充たされるであらう。ここに、近世自然科學が現になしつつある如く、出來るだけ擬人的表象を遠ざけ、主體性を示唆するあらゆる規定を除かうとする努力が必要となる。しかしながらこの努力の成功には限度がある。例へば假りに力や作用を意味する規定を除き得たとしても、外面性・他者性・關係性を意味する規定は、我にあらざる我に對立する存在乃至それの聯關が除き得ぬ限り、なほ殘り留まるであらう。空間は實にかくの如きものである。
「空間」の本質を理解するためには、吾々は時の場合と同じく客觀的實在世界の基本的構造をなす客觀的空間より根源的體驗へと遡つて、自然的生における根源的空間性を見究めねばならぬ。すでに述べた如
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