出でて人倫的共同に入ることがないのがこの實在的他者の特徴である。文化にたづさはる限りそれは質料として物としての役目を務めるに過ぎぬ。人間的主體も文化的乃至人倫的主體として觀られぬ限り、即ち單にそれの自然的乃至客觀的實在性において觀られる限り、自然に屬する。吾々は自然と自然的直接性において接觸し、それの象徴として何等かの體驗内容を受取るが、この内容は反省の段階において客體に高められ更に實在的他者に歸屬せしめられ、かくして客觀的實在世界としての自然及びそれの認識は成立つ。その場合反省及び文化的存在へ昇りうるは主體のみであつて、他者は依然自然的實在性の段階に留まる。從つて自然は自由の無き強制乃至必然の支配する領域である。時間性と空間性とはそれの最も基本的なる特質をなす。かくの如き自然が時間性と共に壞滅に歸すべきは理の當然である。文化の世界が死の運命を免かれ得なかつたのも畢竟は自然的生がそれの土臺をなすからであり、自然は自然的生において主體に出會ふものである以上、人間以外の全き自然は、それの成員並びにそれら相互の關係の一切を携へて、壞滅の運命を文化と共にせねばならぬであらう。
さてかくの如く世界は滅びるが、滅びたままには留まらない。それは新たに若き存在に甦へるであらう。これは無よりして有を呼び出す創造の惠みのなす所である。しかも人格の共同の場合と同じく、ここでも復活は同時に完成である。しかしてこのことはここでも一切が新たに創造されながらしかも同一性が保存されることを意味する。その同一性はここでも結局愛の主體としての神の同一性、神の眞實《まこと》、に基づく。この世の一切の時の終末とともにレーテー(〔Le_the_〕 忘却)の流れに打沈められて過去となる。それが無よりして有へ再生するのは、この世そのものの力いはばそれの記憶力によるのではない。この世は全く無に歸する。ただ神の根源的囘想の眞實《まこと》、愛の主體としてのかれの人格的同一性のみこの不思議をなし得るのである。時間性のあらゆる汚れを拭ひ去られて永遠の光に映え輝く若き新たなる天地が、それのうちにいかなる内容を包含するかは、殆ど全く想像をさへも無力にする。ただ次の事どもは或は言ひ得るであらう。この世においても、愛の光の輝く處では、自己實現を本質とする文化的活動もすでに神の言葉の實現を意味した。すべての存在の基礎をなす自然的
前へ
次へ
全140ページ中139ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング