(二) Althaus: Die letzten Dinge (1933) . S. 135 ff.
(三) R. otto: 〔Su:nde und Urschuld (1932) . S. 87.〕
(四) 一〇節、一一節參看。
[#ここで字下げ終わり]

        四九

 さて、顯はになつた永遠、到來した死後の生の内容はいかなるものであらうか。宗教的構想力は、すでに論じた時と永遠と、こなたの生とかなたの生との間に存する三重の關係、いはば永遠の形式的性格の指し示す線に沿うて動かねばならぬ。永遠的生は時間的生に對して、第一にそれの根源であり、次に克服であるが、更に最後に完成である。時間的生においてすでに永遠的生は内在する。そこで蒙るあらゆる歪曲、そこで出會ふあらゆる抵抗にも拘らず、それはすでにそこに啓示され、すでに生の性格を更新してゐる。吾々は同じ方向の究極的完成・徹底的純化を目標となしうるであらう。尤も目標が目標として、現にこの世にある吾々にとつては、なほ到達されぬ彼方のものであることは、常に嚴格なる警戒と自己批判とを要求するであらう。
 死後の生永遠的生の核心をなすは、神の愛に基づく人の神へ並びに人への愛、神と人との又人と人との共同、創造者と被創造者とを成員とする聖者の交り、でなければならぬ。そこではこの愛の共同を妨げ濁らせるであらう何ものももはや存在しない。自己乃至自己表現は底の底までも他者の象徴となり、自己性と他者性との完全なる合一が成就される故、一方なほ實現を要する自己性も、他方なほ自己性の外に殘る他者性も無い。生は他者の源より發して少しの淀みもなくまた他者へと流れ戻る。全き自己が他者のものであるとともに全き他者は自己の所有に歸する。生はあり生の共同や往來はあるが、それらはこの世の活動におけるが如く妨げや躓きや又缺乏や努力やを知らぬ。あらゆる媒介性は全く影をひそめてただ直接性のみ殘る。しかもその直接性は勿論自然的生におけるそれでなければ、又觀想において目差されるそれでもない。永遠における人の神への生は古へより「神を見る」と呼ばれてゐる。しかしながらその「見る」は、人と人とが相見る場合にしかいふ「見る」の類であつて、物を見る場合のそれとは根本的に區別されねばならぬ。すなはち、客體内容を聯關をたどつて從つて媒介を通じて見るのでなく、又直接に見る即ち
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