に強調した如く、それの根源的意義においては、有の無への沒入、存在の壞滅である。それ故過去の徹底的克服が永遠性の第二の本質的特徴でなければならぬ。然らば將來はいかになるであらうか。これは永遠においても保存される。根源的時間性においては將來は實在的他者を指さす。彼方より來るものを迎へ待ち受ける主體の態度において將來は成立つ。永遠的存在と愛とにおいても、實在的他者として又それよりして、即ち彼方より、來るものを迎へる態度は依然留まる故、否それどころか、かかる態度こそ愛の本質的性格をなす故、永遠においても將來は保存される。永遠を成立たしめる愛が他者と主體との生の純粹完全なる共同であるに應じて、永遠そのものは將來と現在との純粹完全なる合一である。このことによつて現在も將來も面目を全く一新する。この世の生の基礎をなす自然的生においては、來るを迎へることは一方現在の成立を意味しその限り主體と他者との共同の微弱ながらも準備をなすのであるが、他方現在の壞滅を意味し却つてあらゆる共同を妨碍し不可能ならしめる。之に反して永遠においては、主體は來るを迎へることによつて無を克服しあらゆる壞滅を免れる。「將來と現在との完全なる一致」、「將來の完全なる現在性」こそ永遠性である。創造は、諸民族の神話の好んで語る如く、時の始めにおいてただ一囘起る出來事ではなく、永遠の世において絶えず起りつつある出來事である。創造のある處では一切は常に新たに常に若く常に生き常に動く。窮みなく湧き出る將來の泉よりいつも新鮮なる存在を汲み受けつつ、いつも若き現在の盡きぬ喜びに浸る――これが永遠である。かくの如く將來が完全に現在と一致し現在を支配する處には過去ばかりでなく「未來」の居るべき場處が無い。既に述べた如く、「未來」は將來が現在と一致せぬ處に發生する派生的現象である(一)。「將に來らむ」が將來の根源的意義であつて、未來即ち來らむとするものが未だ來らぬのは、自然的生の本質的缺陷によつて將來が蒙る制限に外ならぬ。永遠の世においてはこの制限が全く解除される。ここでは將に來らむとするものは正に即ち必ず來るのである。永遠性の體驗乃至待望が存在する場合なほ「未來」について語るならば、それは無思慮の甚しきものといふべきであらう。要するに、永遠性は無時間性の如く時の簡單なる否定ではない。それは時の克服であるには相違ないが、他方またそ
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