形において神の創造に屬し、殊に純粹客體として自然的生に對して優越性を保ちつつそれよりの解放を企てるイデアは、神の愛と何等かの深き聯關に立つであらう。このことは、すでにのべた如く、人倫的共同を制約乃至媒介する秩序や法則についてはすでに明かに斷言しうる事であるが、その他の場合哲學が對象となすすべてのイデアについても、明確に規定することは困難とするも、推測はなしうるであらう。かくの如くにして物の世界との交渉も、根源まで遡れば、神との對話と名づけうるであらう新たなる意味を發揮するであらう。文化的活動も單なる自己實現に留まるを止めて神の言葉の實現となるであらう。人倫的共同と文化的活動とが現實の生において親密なる聯關に立つを思へば、文化的活動も、人に對する愛と聯關して、神の愛に對する人の答へとして人の神への愛の特殊の形態として、永遠性に參與しうるであらう。
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(一) 物と人との區別に關しては「宗教哲學」二九節以下參看。
(二) この問題は最近キリスト教神學において「自然的神學」(theologia naturalis)の問題として盛に論議された。「宗教哲學序論」一四節以下參看。
(三) 四五節、罪の赦しの處參看。
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      四 永遠と時 有限性と永遠性

        四三

 以上論じ來つた所によれば、永遠性はすでにこの世において體驗されるのである。永遠と時とは相反する性格を擔ひ、永遠的存在は自然的文化的生に對して飽くまでも超越性を保つに拘らず、他方また内在的である。自然的文化的生を生きる同一主體がすでに永遠の世と親密なる聯關に立ち得るのである。このことは勿論神聖者の愛の啓示によるのであつて主體そのものの自らの力によるのではないが、一たびその啓示の立場に立てば、永遠性と時間性との親密なる聯關も明白なる事實となる。永遠は決して時と沒交渉ではない。それの内容的規定は愛の觀念によつて得られたが、それの形相的規定いはばそれの定義は時間性を手蔓としてそれとの關係において得られねばならぬ。吾々はたびたび「滅びぬ現在」について語つた。これが永遠性の第一の本質的特徴である。現在は主體の存在の仕方であり、滅びぬ現在も亦さうである。すでに十分明かになつた如く、愛の共同こそかかる存在の仕方である。滅びぬ現在は過去と全く相容れぬ。過去は、吾々が特
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