「汝」も亦愛の主體として創造されるを意味する。かくの如くにして、絶對的他者神聖者の愛・創造の惠みによつて我の愛とともに愛せられる汝が成立ち、そのことにより又そのことと共に、更に我も愛せられる汝として成立つ。神より發したる愛は、かくの如くにして、永遠的愛の共同、それと共に又、人格及び人格性を生み出し又完成する。これこそ、宗教的用語をもつて呼べば、「聖者の交はり」(communio sanctorum)である。永遠性はかくの如き神聖なる人格と人格との間の互の交はりとして成就される。この交はりにおいては主體の動作は他者の純粹の象徴と化する。神の純粹の象徴と化した人格はそのことによつて又他の人格の純粹の象徴となる。かくて他者は主體の自己實現の質料たることを全く止める。文化的動作即ち活動が「表現的」乃至「形成的」と名づけらるべきに對して、人格的動作は「象徴的」といふべきであらう。ここでは主體は自己表現に媒介され從つて妨碍されて他者を手放したり見失つたりすることがない。神と共にあり神を悦ぶことによつて又そのことにおいて、我は汝と共にあり汝を悦ぶのである。共に感謝し共に歡喜する――これが永遠的生の内容である。
しかしながら啓示の兩面性に應じて永遠性の光は時間性のレンズを通り屈折されてこの世に現はれる。神聖なる愛の交はりは人倫的共同としてのみ實現される。この對象の立入つた考察はもとよりここでは割愛されねばならぬ。吾々は永遠性の觀點よりそれがいかなる變貌を來すであらうかを一瞥すれば足りる。信仰においての如く、愛(人への愛)も決して單純なる純粹なる共同ではない。それは何よりも先づ共同への努力、他者への憧れである。それは共同の缺乏より出發せねばならぬ。すなはちそれはエロースの性格を擔はねばならぬ。從つて又それは何ものかの媒介を必要とする。媒介者はこの場合においてもそれ自らとしては觀念的存在者である。しかしながらここで道が別れる。純粹にエロースにおいては目標は他者における自己の貫徹である。そこには行くへに立塞がる神聖者の侵し難き尊嚴といふが如きものは無い。他者性の任務は、自己性の處理に委ねられそれの實現の契機をなすことに存する。之に反してアガペーは神聖者との共同を目掛けて進む。このことはそれの媒介者に侵すべからざる權威を與へる。カントが定言命法(der kategorische Impe
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