的不連續的屈折的なる象徴性は、宗教的表象に即ち信仰の理論的内容に、徹底的譬喩性の性格を齎す。この譬喩性は、時間性が全く克服され愛が純粹に完全に成就されれば、おのづから全く消滅する。しかしながらこのことは、信仰の表象が理論的表現の範圍内において暫有的前階的であり、從つて理論的に見て妥當なる終極的表現に席を讓るといふことではない。古へより合理主義者は、信と知との區別をこの意味に解し、概念的學問的認識が、神學や哲學が、信仰の不完全なる方便的表現に取つて替はると考へた(二)。これは許し難き謬見である。時間性の續く限りこの世の留まる限り、宗教的表象の譬喩性は消滅することがない。徹底的譬喩性の範圍内においては表現法の變化や進歩は見られるであらう。例へば具體的表現が理論的に加工整理されて概念的表現に移されるといふやうなことは起り得るであらう、否起らねばならぬであらう。しかしながらそのことは決して譬喩性よりの解放を意味せぬのである。永遠者はこの世にとつては徹底的に超越的である、實在的にも性質的にも超越的である。それ自らとしてはそれはこの世のあらゆる人間的表現をないがしろにする。神と人との共同と交渉との任に當る象徴は徹底的であり、表現の入込むべき空隙を殘さない。表現はもと自己性が或る程度の解放を見たる場合にのみ即ち反省の立場においてのみ許される。表象や概念は時間的生においては共同を媒介する任務に就くであらうが、何等の媒介をも要せぬ眞の愛の完き共同においては、存在さへも與へられぬ。この徹底的象徴性がしかも觀念的表現に移されるのが徹底的譬喩性である。神の言葉は全く人の言葉を超越する。しかも人の言葉に移されることによつて宗教的表象は成立つのである。啓示が一方全き人間性を保ちながらしかも他方全き神性、隱れたる神性、を顯はにするのに應じて、宗教的表象はこの世ながらの觀念性・表現性を飽くまでも留めながら、しかも表現を超越するかなたの世の音づれを傳へる。これが徹底的譬喩性である。それは或る一部の觀念や表象の譬喩性ではなく、觀念性そのものの譬喩性なのである。このことは通常宗教的表象の象徴性と呼ばれるが、すでに述べた如く、用語の明確を期するためには、むしろこの名を避けるを適當とする。
かくの如く徹底的譬喩性は時間性そのものと本質的に聯關する。それは一方において永遠性との不一致を意味し、しかも同時に他
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