て、根源的意義は、必ずしも固定したる客體的存在を保つを要せぬ何らかの形象即ち何等かの生内容が、他者を表はし指し示す象徴となることによつて、人と人との、實在者と實在者との、交渉乃至共同が成立つことに存する。それ故、古の思想家達殊にアウグスティヌスが明かなる概念的表現に移した如く、創造は「言葉によつて無よりなされる創造」と呼ぶことが出來よう。絶對的他者と人間的主體との共同は、神先づ語ることによつて絶對者自らの語る言葉によつて成就される。人間的主體は、何ものをも殘すことなく一切の存在を提げ、單に生の内容ばかりでなく中心そのもの主體性實在性そのものをも携へ、全き自己と自己實現とを捧げて、徹頭徹尾他者の象徴となる、否、ならしめられる。自然的生を基礎とするあらゆる生においても、實在的他者との交渉は象徴を通じて行はれるが、その場合象徴となるものは生の内容のみであつて生の中心ではない。主體性實在性そのものは象徴の外にある。從つて象徴となりたる乃至なりうる内容は自己表現の性格を飽くまでも保存する。共同が成立つとしてもそれは部分的斷片的であり、何等かの制約理由の下に立つ。幸ひに眞實の共同、他者を出發點とし原理とする共同、の閃きは見えるとしても、それは忽ちにして消え失せ、殘るはたかだかかかる共同への努力のみとならう。これはエロースの立場であり、根柢において他者への單なる憧れの性格を保つのである。之に反して成就されたるアガペーにおいては、主體性までが象徴化する。主體のあらゆる存在は中心に至るまで他者へと獻げられる。それの全き自己は無に歸する。このことはすでに他者の働きであり惠みである。しかもこれは事の終極ではない。無を克服されたる契機となしつつ、ここに更に同じ他者の惠みによつて有が生れ出る。かくの如き死を通じてはじめて成就される生、しかも他者への生、こそアガペーであり、かくの如き徹底的象徴化こそ創造である。今宗教的用語をもつて言ひ表はせば、神の見る所欲する所は我の見る所欲する所となり、我は神の意志を爲す以外に我自ら爲す所なきに至るであらう。主體性まで象徴化されるに至らぬ間は、「自己」の象徴化は命令・當爲等の性格を脱し得ぬが、他者の惠みの徹底によつて、當爲は現實に、爲すべき事は爲す事に化し、生は新たなる中心より新たなる力として新たなる内容を具へておのづから湧き出るであらう。共同はもはや表面と
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