である。實在するものは決して他の實在者をわがうちに容れず、他者の侵害に對し飽くまでも抵抗をなす。このことは、更に立入つて推究めれば、實在者は主體性において自己主張の動作において成立つことを意味する。それ故自と他との兩實在者の交渉は、若し直接性においてのみ即ち兩者本來の傾向に任せたままで行はれるとすれば、一方の或は双方の、しかして他なくして一のみあることは本質上不可能である故いづれにせよ双方の、壞滅にをはる外はないであらう。かかる歸結に到達せぬ限り即ち自他共存が或る程度成立つてゐる限り、そのことは、他者が他者性超越性を保ちながら、しかも自他相通ずる何ものかによつて主體と相結ばれてゐることを必要とする。生が本質的に他者への生である以上、このことはそれのいづれの段階においても何等かの形において行はれねばならぬ。この任務に當るのが即ち象徴である。象徴は、理解を試みようとする場合、即ち反省と自己表現との立場に立つて取扱はうとする場合、極めて不可解なる殆ど自己矛盾的なる事柄として現はれるであらうが、吾々が現に生きる限りそのことと共に最も根源的なる事實であり、從つて存在の最も基本的なる原理である。日常生活もこれによつてはじめて成立ち得るのである。しかしながら今まで論じ來つた諸段階においては、生の象徴性は不徹底であつた。自然的生においては、それはわづかに壞滅を免れしめる程度のものであり、未だ共同を成立たしめるには至らなかつた。文化的生においては、共同は、他者性が象徴性を離れて自己表現を意味する限りにおいて、觀念的他者との間においてのみ成立つたのであり、從つて實在的他者との間においてはわづかに間接的にのみ成立つたのである。生の象徴性は、自然的生が基體をなす限りにおいてのみ、保たれたのである。しかるに自然的生の徹底化はむしろ自己壞滅從つて象徴性の破棄に存する外はない。それ故、自然的生從つて時間性の危機より救ふものは逆に象徴性の徹底化でなければならぬであらう。
吾々はかくの如き徹底的象徴性を神の愛・創造の惠みにおいて見る。さて、象徴性の最も手近かな又身近かな實例、あらゆる人倫的交渉の最も基本的根源的形態、あらゆる象徴性の理解の基準となるべき典型的體驗、は言葉である。「言葉」は人倫的交渉を媒介する固定したる客體的形象即ち符徴記號そのものの意義にも用ゐられるが、これはむしろ派生的意義であつ
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