死性の思想はこの歸結を要求するであらうが、プラトンは、オルフィク教の影響の下にかれが説いた終末論の示す如く、一定の期間にこの練習を限局した。しかしながら更に一層根本的なる矛盾は練習を必要としたそのことに見られる。靈魂がそれ自らとしてすでに超時間的であるならば、何故に練習を要するのであらうか。尤もプラトン自身もこの論證には理論的滿足を感じなかつた。かれは結局これを抛棄して次の(即ち最後の)論證へと移つて行つた。要するに、彼にとつては魂ひの眞の永遠性は、いついづこにおいても實現され得る乃至されねばならぬ永遠者の觀想においてのみ成立つのであるが、神祕主義者の如くかりそめの氣分や感激に絶對的信頼を置く能はず、主體の現實的生が活動であり自己實現であることを明かに覺るだけの着實さを持つてゐた彼は、つひに收拾し難き混亂に陷つたのである。
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第七章 永遠性と愛
一 エロースとアガペー
三一
時間性の上に出でそれに打勝たうとする傾向は文化的生においてもすでに存在した。否、時間性の克服は文化的生の本質に具はる最も固有の傾向であるとさへいひ得るであらう。さて吾々人間にとつて「ある」は「生きる」であり、生きるは自己主張である。しかも他方においてこの生は他者への生であり、他者との交はりにおいてのみ成立する。人間的存在の全體を支へる根源的生においては主體の對手として向うに立つ他者は實在的他者であり、それとの間柄は直接性である。この自然的生の本質的性格をなすのが時間性である。從つて時間性の克服は生のこの自然性の克服でなければならぬ。問題は、交はりにおいてある他者とそれとの間柄と、これら相聯關する二つの事柄の性格如何に關はる。これら二つと聯關して主體そのものの性格も亦定まる。文化的生は、主體の自己主張並びにそれの直接性はそのままに留保し、ただ他者の性格を變更することによつて向上と自由とを、又從つて時間性よりの離脱を企圖した。この向上の道を絶頂まで登り詰めた哲學においては、無時間的性格を許され得る他者、純粹形相・純粹客體、との交はりさへ實現されて、離脱の努力は成功をもつて報いられたかのやうにさへ思はれた。しかしながら一切の努力は結局失敗にをはらねばならなかつた。文化的生においては、他者は、可能的自己としてそれ自らの
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