」が眞に又嚴密の意味において時間性よりの離脱であることは疑ふべくもない。無終極的時間は時間性の超越どころか却つてむしろ延長擴大であつた。今やはじめて時間性を全く超越したる存在の一領域が吾々の目の前に展開された。忽ち來り忽ち去り時の流れに攫はれて一切の存在が絶えず壞滅のうちに葬られ果てしなき幻滅の旅に追立てられたのとは正反對に、ここには動くことなく滅びることなき存在がはじめて姿を現はした。文化的生の本來の目的である解放と自由とはここにはじめてしかも完全に成就されたかに見える。
しかしながらこれは餘りにも性急な判斷である。ここに無時間的從つて超時間的と認められる存在は果して時間性を克服し得るであらうか。純粹形相即ちイデアは他者性より切離されたる從つて純粹なる自己性を意味する客體である。今かくの如き客體が成立つたとすれば、それは主體の完全なる自己表現を意味せねばならず、從つてそれの超時間性は同時に主體そのものの超時間性を意味し乃至保證せねばならぬであらう。さてこの事は果して可能であらうか。ここに吾々は觀想の二重性格を想ひ起さねばならぬ(一)。觀想は一種の活動である。客體が本來觀念的存在者であることに應じて、主體は自己をそれにおいて表現しつつ、顯はになつた自己としての客體の蔭に隱れて息ひを樂しまうとする。しかも觀想が觀る働きであり、觀られるものと觀るものとの關係交渉において成立つ以上、客體は飽くまでも他者の位置に立たねばならず、いかに短縮されるにせよなほいくらかの隔りにおいて主體に對立せねばならぬ。從つてその限りにおいては安息の目的は達せられず、活動としての性格は依然殘る。このことは時間性が依然克服されずに留まることに外ならぬ。さて然らば活動性從つて時間性の克服は何を意味し何によつて達せられるであらうか。他者性の克服を意味し又そのことによつて達せられるであらう。先づ客體面における他者性は次第に稀薄に、客體相互の間の聯關はますます緊密になるであらう。聯關そのものは主體の自己性の表現であり、從つて同一性に根ざし同一性を意味する故、聯關の緊密化は内容の同一化でなければならぬであらう。論理的法則の支配をますます強化する哲學は、かくして必然的に一者(プロティノスの用語に從へば to hen)――すべての他者及び他者性に打勝つた一者――の觀念に到達するであらう。全體性乃至無限性は必然
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