ンを見ようとする派生的態度の所産である。言語上の表現について觀るも、「將來」は「來らむ」「來らば」などによつて代表される動詞の形――文法學上「將然段」と呼ばれる形――によつて直接に單純に言ひ表はされ得るが、「未來」を言ひ表はすためには何らかの副詞を附け加へることが必要である。同じ事態はギリシア語の to mellon ラテン語及び近代諸外國語の futurum においても明かに見られるであらう。
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        三

 以上の諸點を從つて時の眞の姿を更に立入つて理解するため、今それを存在論的に主體の存在におけるそれの意義の觀點より考察すれば、吾々は時が現實的生即ち自然的文化的生における主體の基本的構造であるを知るであらう。時間性は人間性の最も本質的なる特徴である。主體の存在は他者への存在である(一)。それは他者との關係交渉において成立ち又維持される。しかるに一切の存在の基礎を置くものは自然的生である。「自然」(phusis)といふ語はギリシアの古へにおいては基本的根源的存在の意に用ゐられ、かくて人爲的作爲的なるものの反對を意味するに至つた。ありのまま・單純・直接等の意味あひはそれに附隨する。吾々が今自然的生と名づけるものにおいては、實在する主體は實在する他者と直接的なる關係交渉において立つ。かくの如く生きるのが生の最も基本的根源的姿である。この土臺の上に文化的人間的生は建設される。生が上の段階へ進むにつれて時間性も幾分の變形を見るであらうが、本質的姿を決定するものは自然的生である。ここよりして時間性が人間性の地盤にいかに深く根を張つてゐるか、いかに強く殆ど宿命的に生の性格を色づけてゐるかは理解されるであらう。
 主體は實在するものとして飽くまでも自己の存在を主張する。すなはち他者に對して自己の存在を維持し更に擴張しようとするのがそれの本質的傾向である。さてかくの如き傾向を有する實在者の直接性における交りとして、自然的生は次の二重的性格を示す。主體はそれとの關係交渉に立つ他者が無くしては虚空に飛散消失して壞滅に歸せねばならぬゆゑ、即ちそれの行くへを遮つてそれに抵抗を與へ緊張を促しつつそれの自己主張を誘發する實在者を俟つてはじめてそれの實在性は維持されるゆゑ、――しかして更に主體の生内容はかかる實在的交渉に際して他者を意味し代表するそれの象徴
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