ゐる。そのことの歸結として、時は無際限の延長を見、かくて「無終極性」が時間性の性格として成立つてゐる。永遠性を意味する不死性は先づ差し當りこの形を取らねばならぬであらう。果せるかな、これはプラトン以來カントに至るまで歴史の主流として不死性の觀念が事實上取つた形なのである。
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(一) 一九節註二に引用された諸書及び次の諸書參看。Er. Rohde: Psyche. ―― J. Burnet: The socratic Doctrine of the Soul. (Essays and Addresses, P. 126 ff)
(二) 何らかの聯關を有するものを直ちに同一と考へることは原始民族の精神構造の特徴である。〔Le'vy−Bruhl〕 はこれを明かにした功績を有する。尤も氏がそれを 〔mentalite' pre'logique〕 と呼んだのは、氏自らの主張とはむしろ正反對に、却つて氏がヨーロッパ人式考へ方に囚はれてゐるを示す。現代文化人とは甚しく異なつた、場合によつては正反對なる考へ方をするといふことは、それが論理前であるといふこととは決して同じでない。少しく強く言ひ表はせば、これはヘーゲル派の人々がアリストテレスやカントの論理を 〔mentalite' pre'logique〕 と呼ぶであらう場合と似てゐるのである。
(三) Od. XI, 489.
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        二三

「時」に始め及び終りがあるかなきかについて、すでにデモクリトス(〔De_mokritos〕)やプラトンの昔考察が向けられたことは、アリストテレスの記述よりして察せられる(一)。すでにそれらの兩思想家においてもさうであつたやうに、この問題は多くの場合世界乃至それの内容に關する宇宙論的自然哲學的考察に聯關して取扱はれる。創造と終末とによつて世界の存在が兩方面より限局されるといふ宗教思想を抱いたアウグスティヌスやトマス・アクィナスその他ヨーロッパ中世の思想家達が、同じ觀點を取つたのはもとより然るべき事である。カントの第一アンティノミー(二律背反)も間接にはこの問題に觸れてゐるが、但しこれも世界の始めと終りとに關する宇宙論的問題に聯關してである。尤も「空虚なる時」(die leere Zeit)といふ觀念は論理的抽象の産物に過ぎず、時は本質上何等か
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