に對して抱く關心は可能にせられ、又哲學的理解の事柄となり得たのである。しかしながらオルフィク教の影響は、文化的生の偏重を意味するかれ自らの觀念主義と相俟つて、魂ひと身體とをあまりに相隔たらしめ、その事の歸結として、死及び死後の生を、全き人間ではなく單に一部分に過ぎぬ魂ひにのみ關する事柄にをはらしめた。死を主として客觀的世界の出來事と看做す原始人以來の客觀主義は、死を魂ひと身體との分離として理解せしめることにより、この傾向を助長した。プラトン以後魂ひは極めて豐富なる理解の歴史を經たが、それの基本的意義は大體かれに至るまでの發展において盡されて居り、多くの場合、殊に學問的考察においては、それは殆ど「心」又は「精神」の同義語として用ゐられる。すなはち、それは一方死者であるとともに他方生を司る力乃至生の主體であり、しかしてかくの如く生との聯關において見られる時、それは人間の最も肝要なる部分をなすに相違ないが、全き人間を意味せぬことがそれの本質的特徴である。この特徴は、語義の複雜曖昧によつてすでに惹起された、それの學問的用語としての價値に對する疑念を、更に深める。吾々の論究の題目は、人間主體がいかにして時間性を又死を克服し永遠性を體得するかである。所謂靈魂の不死性はこの問題と聯關し乃至それによつて包括される限りにおいてのみ考慮に値ひするに過ぎぬであらう。かかる事情の下においては、吾々は古きたふとげなる傳統には敬意を表しつつも、この觀念この名稱をむしろ哲學的原理的論究より遠ざけるに如くはないであらう。
 原始民族の間において死に關心が向けられる限りそれは存在の・生の・特殊の形態を意味したことはすでに述べた。不死性の觀念はここに胚芽としてはすでに存在するが、未だ明かに成熟したる形において現はれてゐない。死後存續する靈も場合によつては、例へば生存者の祭祀の絶えた時などは、いつしか消え失せることは可能である。死の根源である時間性の原理的克服が、何等かの形においてすでに存在する處にのみ、不死性の觀念は有意味に成立つのである。そのことは客觀的時間性においてすでに見られる。これは文化的時間性の一變種ではあるが、文化的生本來の性格をなす活動において主體性が特殊の形象乃至領域として客體面に顯はになつてゐるのと異なつて、ここでは、成功不成功は別として、すでに原理的に主體よりの離脱の試みがなされて
前へ 次へ
全140ページ中54ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
波多野 精一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング