野の中に住んでいながら、まるきり穴のない、暗い、小さな、井戸の底にでもいるような気がした。生きているということ、そのことすらも憎みたくなった。憎み切り[#「憎み切り」に傍点]たいとさえ思った。
だが、と私は自省する。憎みきりたいと思うことは今日だけか、今度が初めてかと。病気になって以来幾度となく考えたことではなかったか、いや、発病以来三ヶ年の間、一日として死を考えなかったことがあるか、絶え間なく考え、考えるたびにお前は生への愛情だけを見て来たのではなかったか、そして生命そのものの絶対のありがたさを、お前は知ったのではなかったか、お前は知っているはずだ、死ねば生きてはいないということを! このことを心底から理解しているはずだ。死ねばもはや人間ではないのだ、この意味がお前には判らんのか。人間とは、すなわち生きているということなのだ、お前は人間に対して愛情を感じているではないか。自分自身が人間であるということ、このことをお前は何よりも尊敬し、愛し、喜びとすることができるではないか――夜になって、床にはいるたびに私はこういうことを自問自答するのであった。
私は心臓が弱いのでちょっと昂奮するとすぐ脈搏が速くなりそれが頭に上って眠れない。こういう自問自答をしている時は定まってどきどきと動悸《どうき》がうつ。睡眠不足は悪影響を及ぼして、翌日になると余計充血が激しかったりするのだった。
私は一日に三回、二十分ないし三十分くらいずつの長さで眼を罨法した。医局から貰って来た硼酸水を小さな罨法鍋に移し、火をかけてぬるま湯にすると、それをガーゼに浸して眼球の上に載《の》せて置くのである。仰向《あおむ》けに寝転んで、私はじっとしている。ほのかな温《ぬく》もりが瞼の上からしみ入って来て、溜まった悪血が徐々に流れ去って行くような心地良さである。その心地良さの中にはいい様のない侘《わび》しさが潜んでいる。癩になって、こうした病院へはいり、この若さのままいっさいを、投げ捨てて生きて行かねばならない、そうした自分の運命感が、その心地良さの底深く流れているためである。
私はふとこういうことを思い出した。それは私が入院してからまだ二、三ヶ月にしかならないころだった。もう夕方近く、私は同室の者に連れられて初めて女舎へ遊びに行ったのである。それは女の不自由舎であったが、その舎はかなり古い家だったので
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