結節が、黒い虫のように点々とできているのだった。もちろん一本の陰毛すらも散り果てているのだ。あそこまで癩菌は容赦なく食い荒らして行くのかと、尾田は身顫いした。こうなってまで、死にきれないのか、と尾田は吐息を初めて抜き、生命の醜悪な根強さが呪《のろ》わしく思われた。
生きることの恐ろしさを切々と覚えながら、寝台を下りると便所へ出かけた。どうして自分はさっき首を縊《つ》らなかったのか、どうして江ノ島で海へ飛び込んでしまわなかったのか――便所へはいり、強烈な消毒薬を嗅ぐと、ふらふらと目眩《めまい》がした。危うく扉にしがみついた、間髪だった。
「たかを! 高雄」
と呼ぶ声がはっきり聞こえた。はっとあたりを見廻したがもちろん誰もいない。幼い時から聞き覚えのある、誰かの声に相違なかったが誰の声か解らなかった。何かの錯覚に違いないと、尾田は気を静めたが、再びその声が飛びついて来そうでならなかった。小便までが凍ってしまうようで、なかなか出ず、焦《あせ》りながら用を足すと急いで廊下へ出た。と隣室から来る盲人にばったり出会い、繃帯を巻いた掌ですうっと貌を撫《な》でられた。あっと叫ぶところをかろうじて呑み込んだが、生きた心地はなかった。
「こんばんは」
親しそうな声で盲人はそう言うと、また空間を探りながら便所の中へ消えて行った。
「今晩は」
と尾田も仕方なく挨拶したのだったが、声が顫えてならなかった。
「これこそまさしく化物屋敷だ」
と胸を沈めながら思った。
佐柄木は、まだ書きものに余念もない風であった。こんな真夜中に何を書いているのであろうと尾田は好奇心を興したが、声をかけるのもためらわれて、そのまま寝台に上った。すると、
「尾田さん」
と佐柄木が呼ぶのであった。
「はあ」
と尾田は返して、再びベッドを下りると佐柄木の方へ歩いて行った。
「眠られませんか」
「ええ、変な夢を見まして」
佐柄木の前には部厚なノォトが一冊置いてあり、それに今まで書いていたのであろう、かなり大きな文字であったが、ぎっしり書き込まれてあった。
「御勉強ですか」
「いえ、つまらないものなんですよ」
歔欷きは相変わらず、高まったり低まったりしながら、止むこともなく聞こえていた。
「あの方どうなさったのですか」
「神経痛なんです。そりゃあひどいですよ。大の男が一晩中泣き明かすのですからね」
「手当てはしないのですか」
「そうですねえ。手当てと言っても、まあ麻酔剤でも注射して一時をしのぐだけですよ。菌が神経に食い込んで炎症を起こすので、どうしようもないらしいんです。何しろ癩が今のところ不治ですからね」
そして、
「初めの間は薬も利きますが、ひどくなって来れば利きませんね。ナルコポンなんかやりますが、利いても二、三時間。そしてすぐ利かなくなりますので」
「黙って痛むのを見ているのですか」
「まあそうです。ほったらかして置けばそのうちにとまるだろう、それ以外にないのですよ。もっともモヒをやればもっと利きますが、この病院では許されていないのです」
尾田は黙って泣き声の方へ眼をやった。泣き声というよりは、もう唸《うな》り声にそれは近かった。
「当直をしていても、手の付けようがないのには、ほんとに困りますよ」
と佐柄木は言った。
「失礼します」
と尾田は言って佐柄木の横へ腰をかけた。
「ね尾田さん。どんなに痛んでも死なない、どんなに外面が崩れても死なない。癩の特徴ですね」
佐柄木はバットを取り出して尾田に奨めながら、
「あなたが見られた癩者の生活は、まだまだほんの表面なんですよ。この病院の内部には、一般社会の人の到底想像すらも及ばない異常な人間の姿が、生活が描かれ築かれているのですよ」
と言葉を切ると、佐柄木もバットを一本抜き火をつけるのだった。潰れた鼻の孔から、佐柄木はもくもくと煙を出しながら、
「あれをあなたはどう思いますか」
指さす方を眺めると同時に、はっと胸を打って来る何ものかを尾田は強く感じた。彼の気付かぬうちに右端に寝ていた男が起き上がって、じいっと端坐しているのだった。もちろん全身に繃帯を巻いているのだったが、どんよりと曇った室内に浮き出た姿は、何故とはなく心打つ厳粛さがあった。男はしばらく身動きもしなかったが、やがて静かにだがひどく嗄《しわが》れた声で、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱えるのであった。
「あの人の咽喉《のど》をごらんなさい」
見ると、二、三歳の小児のような涎掛《よだれか》けが頸部にぶら下がって、男は片手をあげてそれを押えているのだった。
「あの人の咽喉には穴が空いているのですよ。その穴から呼吸をしているのです。喉頭癩と言いますか、あそこへ穴を空けて、それでもう五年も生き伸びているのです」
尾田はじっと眺めるのみだった。男はしばらく題目を唱えていたが、やがてそれをやめると、二つ三つその穴で吐息をするらしかったが、ぐったりと全身の力を抜いて、
「ああ、ああ、なんとかして死ねんものかいなあー」
すっかり嗄れた声でこの世の人とは思われず、それだけにまた真に迫る力がこもっていた。男は二十分ほども静かに坐っていたが、また以前のように横になった。
「尾田さん、あなたは、あの人たちを人間だと思いますか」
佐柄木は静かに、だがひどく重大なものを含めた声で言った。尾田は佐柄木の意が解しかねて、黙って考えた。
「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」
尾田はますます佐柄木の心が解らず彼の貌を眺めると、
「人間じゃありません。尾田さん、決して人間じゃありません」
佐柄木の思想の中核に近づいたためか、幾分の昂奮すらも浮かべて言うのだった。
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち[#「いのち」に傍点]そのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那《せつな》に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復《かえ》るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」
だんだん激して来る佐柄木の言葉を、尾田は熱心に訊くのだったが、潰れかかった彼の貌が大きく眼に映って来ると、この男は狂っているのではないかと、言葉の強さに圧されながらも怪しむのだった。尾田に向かって説きつめているようでありながら、その実佐柄木自身が自分の心内に突き出して来る何ものかと激しく戦って血みどろとなっているように尾田には見え、それが我を忘れて聞こうとする尾田の心を乱しているように思われるのだった。とはたして佐柄木は急に弱々しく、
「僕に、もう少し文学的な才能があったら、と歯ぎしりするのですよ」
その声には、今まで見て来た佐柄木とも思われない、意外な苦悩の影がつきまとっていた。
「ね尾田さん、僕に天才があったら、この新しい人間を、今までかつて無かった人間像を築き上げるのですが――及びません」
そう言って枕もとのノォトを尾田に示すのであった。
「小説をお書きなんですか」
「書けないのです」
ノォトをばたんと閉じてまた言った。
「せめて自由な時間と、満足な眼があったらと思うのです。いつ盲目になるかわからない、この苦しさはあなたにはお解りにならないでしょう。御承知のように片方は義眼ですし、片方は近いうちに見えなくなるでしょう、それは自分でもわかりきったことなんです」
さっきまで緊張していたのが急にゆるんだためか、佐柄木の言葉は顛倒しきって、感傷的にすらなっているのだった。尾田は言うべき言葉もすぐには見つからず、佐柄木の眼を見上げて、初めてその眼が赤黒く充血しているのを知った。
「これでも、ここ二、三日は良い方なんです。悪い時にはほとんど見えないくらいです。考えてもみてください。絶え間なく眼の先に黒い粉が飛びまわる焦立たしさをね。あなたは水の中で眼を開いたことがありますか、悪い時の私の眼はその水中で眼を開けた時とほとんど同じなんです。何もかもぼうっと爛《ただ》れて見えるのですよ。良い時でも砂煙の中に坐っているようなものです。物を書いていても、読書していても一度この砂煙が気になり出したら最後ほんとに、気が狂ってしまうようです」
ついさっき佐柄木が、尾田に向かって慰めようがないと言ったが、今は尾田にも慰めようがなかった。
「こんな暗いところでは――」
それでもようやくそう言いかけると、
「もちろん良くありません。それは僕にも解っているのですが、でも当直の夜にでも書かなければ、書く時がないのです。共同生活ですからねえ」
「でも、そんなにお焦《あせ》りにならないで、治療をされてから――」
「焦らないではいられませんよ。良くならないのが解りきっているのですから。毎日毎日波のように上下しながら、それでも潮が満ちて来るように悪くなって行くんです。ほんとに不可抗力なんですよ」
尾田は黙った。佐柄木も黙った。歔欷きがまた聞こえて来た。
「ああ、もう夜が明けかけましたね」
外を見ながら佐柄木が言った。黝《くろ》ずんだ林のかなたが、白く明るんでいた。
「ここ二、三日調子が良くて、あの白さが見えますよ。珍しいことなんです」
「一緒に散歩でもしましょうか」
尾田が話題を更《か》えて持ち出すと、
「そうしましょう」
とすぐ佐柄木は立ち上がった。
冷たい外気に触れると、二人は生き復《かえ》ったように自ずと気持が若やいで来た。並んで歩きながら尾田は、ときどき背後を振り返って病棟を眺めずにはいられなかった。生涯忘れることのできない記憶となるであろう一夜を振り返る思いであった。
「盲目になるのはわかりきっていても、尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです。あなたも新しい生活を始めてください。癩者に成りきって、さらに進む道を発見してください。僕は書けなくなるまで努力します」
その言葉には、初めて会った時の不敵な佐柄木が復っていた。
「苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもあるのです」
そして佐柄木は一つ大きく呼吸すると、足どりまでも一歩一歩大地を踏みしめて行く、ゆるぎのない若々しさに満ちていた。
あたりの暗がりが徐々に大地にしみ込んで行くと、やがて燦然《さんぜん》たる太陽が林のかなたに現われ、縞目を作って梢を流れて行く光線が、強靭な樹幹へもさし込み始めた。佐柄木の世界へ到達し得るかどうか、尾田にはまだ不安が色濃く残っていたが、やはり生きてみることだ、と強く思いながら、光の縞目を眺め続けた。
(昭和十一年『改造』二月号)
[#入力者註:以下の九ヶ所の底本のミスと思われるものは全集版に合わせて修正した。
全集版:東京創元社『定本北條民雄全集・上巻』昭和五十五年刊
数字は定本のページ数と行数を示す。「底本」→「修正」
5−13「識らず墜《お》ち込んで」→「識らず堕《お》ち込んで」
6−1「傾き初めた太陽の」→「傾き始めた太陽の」
8−2「患者の生活もその」→「患者の住居もその」
14−17「一端を摘《つか》み取る」→「一端を掴《つか》み取る」
15−9「眉を窄《すぼ》めた」→「肩を窄《すぼ
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