一つ大きな鼓動が打って、ふらふらッと眩暈《めまい》がした。危うく転びそうになる体を、やっと支えたが、咽喉が枯れてしまったように声が出なかった。
 「どうしたんですか」
 笑っているらしい声で佐柄木は言いながら近寄って来ると、
 「どうかしたのですか」
と訊いた。その声で尾田はようやく平常な気持を取り戻し、
 「いえちょっとめまい[#「めまい」に傍点]がしまして」
 しかし自分でもびっくりするほど、ひっつるように乾いた声だった。
 「そうですか」
 佐柄木は言葉を切り、何か考える様子だったが、
 「とにかく、もう遅いですから、病室へ帰りましょう」
と言って歩きだした。佐柄木のしっかりした足どりに尾田も、何となく安心して従った。

 駱駝《らくだ》の背中のように凹凸のひどい寝台で、その上に布団を敷いて患者たちは眠るのだった。尾田が与えられた寝台の端に腰をかけると、佐柄木も黙って尾田の横に腰を下ろした。病人たちはみな寝静まって、ときどき廊下を便所へ歩む人の足音が大きかった。ずらりと並んだ寝台に眠っている病人たちの状《さま》ざまな姿体を、尾田は眺める気力がなく、下を向いたまま、一時も早く布団の中にもぐり込んでしまいたい思いでいっぱいだった。どれもこれも癩《くず》れかかった人々ばかりで人間というよりは呼吸のある泥人形であった。頭や腕に巻いている繃帯も、電光のためか、黒黄色く膿汁がしみ出ているように見えた。佐柄木はあたりを一わたり見廻していたが、
 「尾田さん、あなたはこの病人たちを見て、何か不思議な気がしませんか」
と訊くのであった。
 「不思議って?」
と尾田は佐柄木の貌を見上げたが、瞬間、あっと叫ぶところであった。佐柄木の美しい方の眼がいつの間にか抜け去っていて、骸骨のようにそこがぺこんと凹んでいるのだった。あまり不意だったので言葉もなく尾田が混乱していると、
 「つまりこの人たちも、そして僕自身をも含めて、生きているのです。このことを、あなたは不思議に思いませんか。奇怪な気がしませんか」
 急に片目になった佐柄木の貌は、何か勝手の異なった感じがし、尾田は、錯覚しているのではないかと自分を疑いつつ、恐々《こわごわ》であったが注意して佐柄木を見た。佐柄木は尾田の驚きを察したらしく、つと立ち上がって当直寝台――部屋の中央にあって当直の附添いが寝る寝台――へすたすたと歩いて行ったが、すぐ帰って来て、
 「はははは。目玉を入れるのを忘れていました。驚いたですか。さっき洗ったものですから――」
 そう言って尾田に掌手《てのひら》に載せた義眼を示した。
 「面倒ですよ。目玉の洗濯までせねばならんのでね」
 そして佐柄木はまた笑うのであったが、尾田は溜まった唾液《つば》を呑み込むばかりだった。義眼は二枚貝の片方と同じ恰好《かっこう》で、丸まった表面に眼の模様がはいっていた。
 「この目玉はこれで三代目なんですよ。初代のやつも二代目も、大きな嚏《くさめ》をした時飛び出しましてね、運悪く石の上だったものですから割れちゃいました」
 そんなことを言いながらそれを眼窩《がんか》へあててもぐもぐとしていたが、
 「どうです、生きてるようでしょう」
と言った時には、もうちゃんと元の位置に納まっていた。尾田は物凄い手品でも見ているような塩梅《あんばい》であっけに取られつつ、もう一度唾液を呑み込んで返事もできなかった。
 「尾田さん」
 ちょっとの間黙っていたが、今度は何か鋭いものを含めた調子で呼びかけ、
 「こうなっても、まだ生きているのですからね、自分ながら、不思議な気がしますよ」
 言い終わると急に調子をゆるめて微笑していたが、
 「僕、失礼ですけれど、すっかり見ましたよ」
と言った。
 「ええ?」
 瞬間|解《げ》せぬという風に尾田が反問すると、
 「さっきね。林の中でね」
 相変わらず微笑して言うのであるが、尾田は、こいつ油断のならぬやつだと思った。
 「じゃあすっかり?」
 「ええ、すっかり拝見しました。やっぱり死にきれないらしいですね。ははは」
 「………」
 「十時が過ぎてもあなたの姿が見えないのでひょっとすると――と思いましたので出かけてみたのです。初めてこの病室へはいった人はたいていそういう気持になりますからね。もう幾人もそういう人にぶつかって来ましたが、まず大部分の人が失敗しますね。そのうちインテリ青年、と言いますか、そういう人は定まってやり損いますね。どういう訳かその説明は何とでもつきましょうが――。すると、林の中にあなたの姿が見えるのでしょう。もちろん大変暗くて良く見えませんでしたが。やっばりそうかと思って見ていますと、垣を越え出しましたね。さては院外《そと》でやりたいのだなと思ったのですが、やはり止《と》める気がしませんのでじっと見て
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