尾田は黙った。佐柄木も黙った。歔欷きがまた聞こえて来た。
「ああ、もう夜が明けかけましたね」
外を見ながら佐柄木が言った。黝《くろ》ずんだ林のかなたが、白く明るんでいた。
「ここ二、三日調子が良くて、あの白さが見えますよ。珍しいことなんです」
「一緒に散歩でもしましょうか」
尾田が話題を更《か》えて持ち出すと、
「そうしましょう」
とすぐ佐柄木は立ち上がった。
冷たい外気に触れると、二人は生き復《かえ》ったように自ずと気持が若やいで来た。並んで歩きながら尾田は、ときどき背後を振り返って病棟を眺めずにはいられなかった。生涯忘れることのできない記憶となるであろう一夜を振り返る思いであった。
「盲目になるのはわかりきっていても、尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです。あなたも新しい生活を始めてください。癩者に成りきって、さらに進む道を発見してください。僕は書けなくなるまで努力します」
その言葉には、初めて会った時の不敵な佐柄木が復っていた。
「苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもあるのです」
そして佐柄木は一つ大きく呼吸すると、足どりまでも一歩一歩大地を踏みしめて行く、ゆるぎのない若々しさに満ちていた。
あたりの暗がりが徐々に大地にしみ込んで行くと、やがて燦然《さんぜん》たる太陽が林のかなたに現われ、縞目を作って梢を流れて行く光線が、強靭な樹幹へもさし込み始めた。佐柄木の世界へ到達し得るかどうか、尾田にはまだ不安が色濃く残っていたが、やはり生きてみることだ、と強く思いながら、光の縞目を眺め続けた。
(昭和十一年『改造』二月号)
[#入力者註:以下の九ヶ所の底本のミスと思われるものは全集版に合わせて修正した。
全集版:東京創元社『定本北條民雄全集・上巻』昭和五十五年刊
数字は定本のページ数と行数を示す。「底本」→「修正」
5−13「識らず墜《お》ち込んで」→「識らず堕《お》ち込んで」
6−1「傾き初めた太陽の」→「傾き始めた太陽の」
8−2「患者の生活もその」→「患者の住居もその」
14−17「一端を摘《つか》み取る」→「一端を掴《つか》み取る」
15−9「眉を窄《すぼ》めた」→「肩を窄《すぼ
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