柑の木だ。粛条《しょうじょう》と雨の降る夕暮れである。いつの間にか菅笠《すげがさ》を被《かぶ》っている。白い着物を着て脚絆《きゃはん》をつけて草鞋《ぞうり》を穿《は》いているのだ。追っ手は遠くで鯨波をあげている。また近寄って来るらしいのだ。蜜柑の根もとに跼《かが》んで息を殺す、とたんに頭上でげらげらと笑う声がする。はっと見上げると佐柄木がいる。恐ろしく巨きな佐柄木だ。いつもの二倍もあるようだ。樹から見下している。癩病が治ってばかに美しい貌なのだ。二本の眉毛も逞《たくま》しく濃い。尾田は思わず自分の眉毛に触ってはっとする。残っているはずの片方も今は無いのだ。驚いて幾度も撫《な》でてみるがやっぱり無い。つるつるになっているのだ。どっと悲しみが突き出て来てぼろぼろと涙が出る。佐柄木はにたりにたりと笑っている。
 「お前はまだ癩病だな」
 樹上から彼は言うのだ。
 「佐柄木さんは、もう癩病がお癒りになられたのですか」
 恐る怖る聴いてみる。
 「癒ったさ、癩病なんかいつでも癒るね」
 「それでは私も癒りましょうか」
 「癒らんね。君は。癒らんね。お気の毒じゃよ」
 「どうしたら癒るのでしょうか。佐柄木さん。お願いですから、どうか教えてください」
 太い眉毛をくねくねと歪めて佐柄木は笑う。
 「ね、お願いです。どうか、教えてください。ほんとうにこのとおりです」
 両掌を合わせ、腰を折り、お祈りのような文句を口の中で呟く。
 「ふん、教えるもんか、教えるもんか。貴様はもう死んでしまったんだからな。死んでしまったんだからな」
 そして佐柄木はにたりと笑い、突如、耳の裂けるような声で大喝した。
 「まだ生きてやがるな、まだ、貴、貴様は生きてやがるな」
 そしてぎろりと眼をむいた。恐ろしい眼だ。義眼よりも恐ろしいと尾田は思う。逃げようと身構えるがもう遅い。さっと佐柄木が樹上から飛びついて来た。巨人佐柄木に易々《やすやす》と小腋《こわき》に抱えられてしまったのだ。手を振り足を振るが巨人は知らん顔をしている。
 「さあ火炙りだ」
と歩き出す。すぐ眼前に物凄い火柱が立っているのだ。炎々たる焔の渦がごおうっと音をたてている。あの火の中へ投げ込まれる。身も世もあらぬ思いでもがく。が及ばない。どうしよう、どうしよう、灼熱した風が吹いて来て貌《かお》を撫でる。全身にだらだらと冷汗が流れ出る。佐柄木
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