、寐ても覚めても養い親の大恩と、実の親の不実を思わぬ時はございません。さて其の夏も過ぎ秋も末になりまして、龜甲屋から柳島の別荘の新座敷の地袋に合わして、唐木《からき》の書棚を拵えてくれとの注文がありました。前にも申しました通り、長二はお柳が置忘れた紙入を届けに行ったきり、是まで一度も龜甲屋へ参った事はございませんが、今度の注文物は其の地袋の摸様《もよう》を見なければ寸法其の外の工合《ぐあい》が分りませんので、余儀なく九月廿八日に自身で柳島へ出かけますと、折よく幸兵衞が来ておりまして、お柳と共に大喜びで、長二を座敷へ通しました。長二は地袋の摸様を見て直《すぐ》に帰るつもりでしたが、夫婦が種々《いろ/\》の話を仕かけますので、迷惑ながら尻を落付けて挨拶をして居るうちに、橋本の料理が出ました。
幸「親方……何にもないが、初めてだから一杯やっておくれ」
長「こりゃアお気の毒さまな、私《わたくし》ア酒は嫌いですから」
柳「そうでもあろうが、私がお酌をするから」
長「へい/\これは誠にどうも」
幸「酒は嫌いだというから無理に侑《すゝ》めなさんな、親方肴でもたべておくれ」
長「へい、こんな結構な物ア喰った事アございませんから」
幸「だッて親方のような伎倆《うでまえ》で、親方のように稼いでは随分儲かるだろうから、旨い物には飽きて居なさろう」
長「どう致しまして、儲かるわけにはいきません、皆《みん》な手間のかゝる仕事ですから、高い手間を戴きましても、一日《いちんち》に割ってみると何程にもなりやしませんから、なか/\旨い物なんぞ喰う事ア出来ません」
幸「左様《そう》じゃアあるまい、人の噂に親方は貧乏人に施しをするのが好きだという事だから、それで銭が持てないのだろう、何ういう心願かア知らないが、若いにしちア感心だ」
長「人は何《なん》てえか知りませんが、施しといやア大業《おおぎょう》です、私《わたくし》ア少《ちい》さい時分貧乏でしたから、貧乏人を見ると昔を思い出して、気の毒になるので、持合せの銭をやった事がございますから、そんな事を云うんでしょう」
柳「長さん、お前|少《ちい》さい時貧乏だッたとお云いだが、お父《とっ》さんやお母《っか》さんは何商売だったね」
長「元は田舎の百姓で私《わたくし》の少さい時|江戸《こっち》へ出て来て、荒物屋を始めると火事で焼けて、間も
前へ
次へ
全83ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング