、今になって若し否《いや》だなんと仰しゃいますと私は生きては居《お》られませんから、死にますよ」
成「これは呆れたもんだ……左程まで貴公を想うて」
治「へえ……それでは只今手許にはございませんゆえ、永井喜八郎から用達《ようだ》てゝ貰って参りましょう、毎年《まいねん》参って顔も知って居りますから」
と云捨て立ちにかゝるを引止め、
成「アこれ何処へ往《い》かっしゃる」
治「へえ、鞄を取りに」
成「いや往かんでも宜しい、硯箱もあるから手紙を書きなされ、鞄の中に千円くらい這入って居ろう……いや隠したっていかん」
治「でも懐中に印形がありませんから」
成「なければ喜八郎を此処へ呼びなさい、下婢《おんな》を呼びにやりましょうから、貴公の手で手紙を書きなさい」
と硯箱を突付けられ、
治「へえ、宜しゅうございます」
と治平は手紙を認《したゝ》めて女中に持たして遣りました。
七十二
治平が手紙を書いて女中に持たして遣ると、直ぐに永井喜八郎に預けて置いた千四百円這入りました重たい鞄を女中が提げて参りまして、慄えながら怖々に治平の背後《うしろ》から出すを受取り、中より千円|取纒《とりまと》めて差出し、
治「えゝ仰せに従い千円の処《とこ》は差出しますが、金は慥《たし》かに受取った、女の処は相違なく貴殿方へ嫁にやると云う確《しか》と致した書付を一本戴きませんでは、何分大金でございますから、ヘイ」
成「お前は分らん事を云う人だな、其様《そん》な証書を取って公然《おもてむき》にする気かい、僕も恥じゃから公然には出来ないし、お前も之を公然にすれば何うしたってそれだけの処分につかなければなるまいから、証書も何も要る話じゃアない、どうせ此の女が金を持って貴公の処《とこ》へ嫁《ゆ》くのじゃアないか、強《し》いて分らん事を云えば公然に為《し》ようか」
治「へえ、成程……詰り私の方へ廻って参りますかな……左様なら何卒《どうか》確《しか》とお受取りを願います」
成「金額に違算《いさん》もあるまいがお前受取るが宜《い》い、早く勘定をしなさい、面倒でも十円札だから造作もない、ちょっと勘定を為《し》なさい」
高「はい」
と積上げたる札を数えまして、
高「千円慥かにございます」
成「然《そ》んなら鞄へ入れて置きなさい……永う此処に居て、万一他の者の耳へ這入ってもならんし、此の下女も堅い奴
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