真暗《まっくら》でございます。今長兵衞が橋の中央《なかば》まで来ると、上手《うわて》に向って欄干へ手を掛け、片足踏み掛けているは年頃二十二三の若い男で、腰に大きな矢立を差した、お店者《たなもの》風体《ふうてい》な男が飛び込もうとしていますから、慌《あわ》てゝ後《うしろ》から抱き止め、
長「おい、おい」
男「へゝへえ」
長「気味の悪い、何《な》んだ」
男「へえ…真平《まっぴら》御免なさいまし」
長「何んだお前《めえ》は、足を欄干へ踏掛《ふんが》けて何《ど》うするんだ」
男「へえ」
長「身投げじゃアねえか、え、おう」
男「なに宜《よろ》しゅうございます」
長[#「長」は底本では「男」と誤記]「なに宜《い》い事があるもんか、何んだ若《わけ》え身空アして……お店風だが、軽はずみな事をして親に歎《なげ》きを掛けちゃアいけねえよ、ポカリときめちまってガブ/\騒いだってお前《めえ》助かりゃアしねえぜ、え、おい、何《なん》で身を投げるんだえ」
五
男「御親切に有難うございます、私も身を投げる気はございませんが、迚《とて》も行立ちません、もう思案も分別も仕尽しました暁《あかつき》に覚悟を極《きわ》めたので、中々容易な事ではございませんから、お構いなく往らしって下さいまし」
長「お構いなくったって、お構いなく往《い》かれるかえ、人情としてお前《めえ》の飛び込むのを見て、アヽ然《そ》うかといって往かれねえじゃアねえか何《な》んで死ぬんだよ、店者《たなもの》だから大方女郎のつかい込みで、金が足らなくって主人に済まねえって………極ってらア、然うだろう」
男「いえなに然《そ》んな訳じゃアないが、なに宜しゅうございます」
長「宜しくねえよ、冗談じゃアねえぜ、え、おう」
男「御親切は有難う存じます、私は白銀町《しろかねちょう》三丁目の近卯《きんう》と申します鼈甲問屋《べっこうどんや》の若い者ですが、小梅《こうめ》の水戸様へ参ってお払いを百金戴き、首へ掛けて枕橋《まくらばし》まで参りますると、ポカリと胡散《うさん》な奴が突き当りましたから、はっと思ってると、私《わたくし》の懐へ手を入れて逃げて行《ゆ》きましたから、何を為《し》やアがると云って、後《あと》で見ますと金が有りませんから、小僧の使《つかい》ではなし、金を泥坊に奪《とら》れたといって帰られもせず、と云って何処《どこ》へ往って相談致すという処もございませんから、身を投げるんで、大金の事でございますから何《ど》んな処《とこ》へ参りまして相談を致しても無駄でございますから身を投げるのでございます、何《ど》うぞお構いなく往らしって」
長「百両奪られちまッたのかえ、何うも為《し》ょうがねえなア、冗談じゃアねえぜ、大店《おおとこ》なんてえもなアおおまかだなア、己《おら》ッちの身の上では百両の金で借金を残らず払って、好《い》い正月が出来るんだが、本当に、大金を奪られるような者に払いを取りに遣るとはおおまかなもんだなア、お前《めえ》もまた間抜じゃアねえか、胴巻へ入れて確《しっか》り懐へ入れて置けば宜《い》いのに、百両といえば重《おめ》え金額《かね》だ、本当に冗談じゃアねえぜ、だがの……金で生命《いのち》は買えねえや、え、おう、何処《どっか》へ相談しに往きねえな、旦那に逢って然《そ》う云いねえ、泥坊に奪られて誠に面目|次第《しでえ》もござえやせん、全く奪られたに違《ちげ》え有りやせんて、え、おう何処《どっか》へ往って相談して見ねえな」
男「へえ、相談したくも親も兄弟も無い身の上で、主人も手前ばかりは身寄頼りのない身の上だから、辛抱次第で行々《ゆく/\》は暖簾《のれん》を分けて遣る、其の代り辛抱をしろ、苟《かりそめ》にも曲った心を出すなと熟々《つく/″\》御意見下すって、余《あんま》り私を贔屓《ひいき》になすって下さいますもんだから、番頭さんが嫉《そね》んで忌《いや》な事を致しますから、相談も出来ませんが、何うしても私《わたくし》が女郎《じょうろ》買でも為《し》て使い込んだとしきゃア思われませんから、面目なくって旦那さまに合《あわ》す顔はございません、なに宜しゅうございますからお構いなく往らしって」
長「いけねえなア、何うしてもお前《めえ》死《しな》なくッちゃアいけねえのか………じゃア仕方がねえ、金ずくで人の命は買えねえ、己も無くッちゃアならねえ金だが、お前に出会《でっくわ》したのが此方《こっち》の災難《せえなん》だから、これをお前に………だが、何うか死なねえようにしてくんなナ、え、おう」
男「ヘエ、死なないように致しますから、お構いなく往らしって下さいまし」
長「お構《かめ》えなくッたって……じゃア往くから屹度《きっと》死なねえとはっきり極りをつけてくんなよ」
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