や》の許《もと》へやつて参《まゐ》り、玄関《げんくわん》へ掛《かゝ》つて、甚「お頼《たの》ウ申《まうし》ます。書生「どーれ、ヤ、是《これ》はお入来《いで》なさい。甚「エヽ先生は御退屈《ごたいくつ》ですか。書「別に退屈《たいくつ》も致《いた》しちやア居《ゐ》ませぬが、何《なん》ですい。甚「いえ、お宅《たく》にお出《いで》なせえますかツてんで…エヘ…御在宅《ございたく》かてえのと間違《まちがひ》たんで。書生「さうか、ま此方《こつち》へお上《あが》り。甚「アヽお目《め》に懸《かゝ》つて少々《せう/\》お談《だん》じ申《まうし》てえ事があつて出ましたんで。書生「お談《だん》じ申《まうし》たい……エヽ先生|八百屋《やほや》の甚兵衛《じんべゑ》さんがお入来《いで》で。真「おや/\夫《それ》は能《よ》くお入来《いで》だ、さア/\此方《これ》へ、何《ど》うも御近所《ごきんじよ》に居《ゐ》ながら、御無沙汰《ごぶさた》をしました、貴方《あなた》は毎日《まいにち》能《よ》くお稼《かせ》ぎなさるね朝も早く起《おき》て、だから近所でもお評判《へうばん》が宜《よ》うごすよ。甚「えゝ、何《なに》かソノ承《うけたま》はりまして驚入《おどろきい》りましたがね。真「エ、何《なに》を驚《おどろ》いた。甚「何《なん》だか貴方《あなた》はソノお邸《やしき》から持《もつ》てお出《いで》なすつたてえことで。真「エ。甚「盗《ぬす》んで来《き》たつてね。真「何《ど》うも怪《け》しからぬことを仰《おつ》しやるねお前《まへ》さんは、私《わたし》も随分《ずゐぶん》諸家様《しよけさま》へお出入《でいり》をするが、塵《ちり》ツ葉《ぱ》一|本《ぽん》でも無断《むだん》に持つて来た事はありませぬよ。甚「いゝえ夫《それ》でも確《たしか》に持つて来なすつた。真「何《ど》うも怪《け》しからぬ事を、何《なん》ぼお前《まへ》さんは人が良《い》いからつて、よもや証拠《しようこ》のない事を云《い》ひなさるまい。甚「エヽありますとも、アノ一|番《ばん》奥《おく》の掃溜《はきだめ》の前《まへ》の家《いへ》のお関《せき》さん、彼《あ》の方《かた》が証拠人《しようこにん》です。真「証拠人《しようこにん》ならお連《つれ》なさい、此方《こつち》は些《ちつ》とも覚《おぼえ》のない事だから。甚「エヘヽヽヽ、ナニおせきさんぢやない赤いソノ何《なん》とか云《い》つたつけ、うむ、お赤飯《せきはん》か。真「えゝ成程《なるほど》、夫《それ》ぢやア先刻《さつき》お前《まへ》さん所《ところ》へお赤飯《せきはん》を上《あ》げた其《そ》の礼《れい》に来《き》なすつたのかね。甚「ヘイ能《よ》く知つて居《ゐ》ますね、横着者《わうちやくもの》。真「ナニ横着《わうちやく》な事があるものか、イエ彼《あれ》はほんの心ばかりの祝《いはひ》なんで、如何《いか》にも珍《めづらし》い物を旧主人《きゆうしゆじん》から貰《もら》ひましたんでね、実《じつ》は御存知《ごぞんぢ》の通《とほ》り、僕《ぼく》は蘭科《らんくわ》の方《はう》は不得手《ふえて》ぢやけれど、時勢《じせい》に追はれて止《や》むを得《え》ず、些《ちつ》とばかり西洋医《せいやうい》の真似事《まねごと》もいたしますが、矢張《やはり》大殿《おほとの》や御隠居様杯《ごいんきよさまなど》は、水薬《みづぐすり》が厭《いや》だと仰《おつ》しやるから、已前《まへ》の煎薬《せんやく》を上《あ》げるので、相変《あひかは》らずお出入《でいり》を致《いた》して居《ゐ》る、処《ところ》が這囘《このたび》多分《たぶん》のお手当《てあて》に預《あづか》り、其上《そのうへ》珍《めづ》らかなる熊《くま》の皮を頂戴《ちやうだい》しましたよ、敷皮《しきがは》を。甚「へえーアノ何《なん》ですか、蟇《ひきがへる》を。真「蟇《ひきがへる》ぢやアない、敷皮《しきがは》です、彼所《あれ》に敷《し》いてあるから御覧《ごらん》なさい。甚「へえー成程《なるほど》大きな皮だ、熊の毛てえものは黒いと思つたら是《こ》りア赤《あか》うがすね。真「いま山中《さんちゆう》に接《す》む熊とは違つて、北海道産《ほつかいだうさん》で、何《ど》うしても多く魚類《ぎよるゐ》を食《しよく》するから、毛が赤いて。甚「へえー、緋縅《ひをどし》の鎧《よろひ》でも喰《く》ひますか。真「鎧《よろひ》ぢやアない、魚類《ぎよるゐ》、さかなだ。甚「へえー成程《なるほど》、此処《こゝ》に弾丸《てつぱうだま》の穴か何《なに》かありますね。真「左様《さやう》さ、鉄砲傷《てつぱうきず》のやうだね。甚「何《ど》うも大変《たいへん》に毛が長《なが》うがすな。真「うむ、牛熊《うしぐま》の毛はチヤリ/\して長いて。甚「ア想出《おもひだ》した、女房《にようばう》も宜《よろ》しく。



底本:「明治の文学 
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