もいゝから帰《けえ》れたら早く帰《けえ》って来《こ》うというと胆《きも》いれてそんたら往くめえなどと、年寄ればハア然《そ》うお前《めえ》にまでいわれて邪魔になるかと思って早くおっ死度《ちにて》えなどと愚痴も出るものでのう」

        五十五

 惣次郎「イエ左様なれば早く帰って参ります、思わず言過ぎて何《ど》うも悪いことを申しまして今夜は早く帰って参ります、大《おお》きに余計な御心配を懸けまして誠に済みません」
 母「然《そ》うなれば宜しい、機嫌を直して往《い》くがいいよ、これ/\多助《たすけ》や」
 多「ハイ」
 母「汝《われ》行くか」
 多「ヘエ、関取が出るてえから行って見ようと思って」
 母「汝口が苛《えら》いから人中へ入って詰らねえ口利いては旦那様の顔に障るから気イ付けて能く柔和《おとな》しく慎しんで往《い》てこうよ」
 多「ヘエ、畏《かしこま》りました、私《わし》が行けば大丈夫《でいじょうぶ》だ、そんなら往って参《めえ》ります、左様なら」
 と、惣次郎は是から水街道の麹屋に行って彼《か》のお隅を連れて、法恩寺村の場所に行こうと思ったが、今日は大《たい》した入りだというから、それよりは花車を他《ほか》へ招《よ》んで酒を飲ました方が宜しい、それに女連《おんなづれ》で雑沓《ざっとう》の中で間違でも有っては成らぬ、殊《こと》にお隅を連れて行くは心配でもあり役柄をも考えたから、大生郷の天神前の宇治の里という料理屋へ上《あが》り、此処《こゝ》の奥で一猪口《ひとちょこ》遣《や》っていると、間が悪い時は仕方のないもので、彼《か》のお隅にぞっこん惚れて口説いて弾《はじ》かれた、安田一角《やすだいっかく》という横曾根村の剣術家、自《みず》から道場を建てゝ近村《きんそん》の人達が稽古に参る、腕前は鈍くも田舎者を嚇《おど》かしている、見た処は強そうな、散髪を撫付《なでつ》けて、肩の幅が三尺もあり、腕などに毛が生えて筋骨|逞《たくま》しい男で、一寸《ちょっと》見れば名人らしく見える先生でございます。無反《むぞり》の小長《こなが》いのを帯《さ》し、襠高《まちだか》の袴《はかま》をだゞッ広《ぴろ》く穿き、大先生の様に思われますが、賭博打《ばくちうち》のお手伝でもしようという浪人者を二人連れて、宇治の里の下座敷で一口遣っていると、奥に惣次郎がお隅を連れて来ている事を聞くと、ぐッぐッと癪に障り、何か有ったら関係《かゝりあい》を付けようと思っている。此方《こちら》では御飯が済んだから帰り掛《がけ》に花車の家《いえ》に往《ゆ》こうというので急いで出る、お隅も安田が来ているのを認めましたから気味が悪く早く帰ろうと思うので、奥から出て廊下へ来ると、何《ど》うしても其処《そこ》を通らなければ出られないから、安田はわざと三人の刀の鐺《こじり》を出して置きますと、長い刀の柄前《つかまえ》にお隅が躓《つま》づきましたのを見ると、
 安「コレ/\待て、コレ其処へ行《ゆ》く者待て」
 惣「ヘエ/\私《わたくし》でございますか」
 安「手前|何処《どこ》の者か知らんけれども、人の前を通る時に挨拶して通れ、殊《こと》にコレ武士の腰に帯《たい》して歩く腰の物の柄前に足をかけて、麁忽《そこつ》でござると一言《ひとこと》の謝言《わびごと》も致さず、無暗《むやみ》に参ることが有るか、必定心有ってのことだろう」
 惣「ヘイ頓《とん》と心得ませんで…お前|疎忽《そこつ》だからいけない、お武家様のお腰の物に足をかけて何《なん》のことだね、ヘイ何《ど》うも相済みませんでございました、つい取急ぎまして飛んだ不調法を致しました、当人に成代りましてお詫《わび》を申上げます、何分御勘弁を願います」
 安「なに詫を申すなら何処の者か姓名も云わず、人に物を詫びるには姓名を申せ、白痴《たわけ》め」
 惣「ヘエ、手前は羽生村の惣次郎と申す何も弁《わき》まえませぬ百姓でございます」
 安「なに、羽生村の惣次郎、うむ名主だな、イヽヤ名主だ、羽生村にて外《ほか》に惣次郎と云う名前の者は無い様だ、名主役をも勤むる者が人の前を通る時には御免なさいとかお先《さ》きに参るとか何《なん》とか聊《いさゝ》か礼儀会釈を知らぬ事も有るまい、小前《こまえ》の分らぬ者などには理解をも云い聞けべき名主役では無いか、それが殊《こと》に武士《さむらい》の腰の物を足下《そっか》にかけて黙って行《い》くと云う法が有るか、咎《とが》めたらこそ詫もするが、咎めずば此の儘《まゝ》行《ゆ》き過ぎるであろう、無礼至極の奴、左様ではござらんか仁村《にむら》氏《うじ》」
 仁「是はお腹立の処|御尤《ごもっと》も是は何も横合から指出《さしで》て兎や角いうではないが、けれども斯《こ》ういう席だから、何も先生だって大したお咎をなさる訳でもあるまいが、今
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