る先方《さき》まで屹度《きっと》私がお供いたしますから」
 若「あゝうるさいねえ、急用があって行《ゆ》くんだから、うっちゃッといておくれよ」
 男「ヘヽヽヽ急御用てえのは、大方、ねえ、お嬢さん、神奈川あたりに待ってるものがあるんでしょう、ヘヽヽヽヽ何サうるさがられたッて、フヽヽヽム私《わっし》がお出先きまでお供しましょうよ、根岸の伯父御に頼まれて来たんだから、見届けなきゃア役目がすまねえのさ」
 とぐるりと変る調子にお若さんは恟《びっく》りいたし、何うか混雑に紛れてその男をまこうと苦しみますが、生憎《あいにく》夜は更けて居ます事で、待合室にもちらりほらりの人でげす。汽車へ乗込むところにも七八人のものしかいない。お若が如何に逃げてまわりましても、怪しい男は始終影身にそって附いております。先方《さき》へ行《ゆ》き着いてからの心配よりは、只今では此の男をまくことに気を揉んでもなか/\思うように参らない。
 品川の停車場《ステーション》でお若が怪しい様子に付けこんで目を放さない気味のわるい男は、下谷坂本あたりを彷徨《うろつ》いております勘太《かんた》という奴。元は大工でげしたが身持が悪いので、親方にもはなれ、仕事をさせてくれるものもない、そうなって参ると猶更に怠《なまけ》るようになって世の中の稼いで暮すと申す活業《なりわい》に逆らってゆくもので、到頭|破落戸《ごろつき》仲間へおち、良くない悪法ばかりやっております。根が胆《きも》ッ玉の太《ふて》え奴でげすから、追々その道の水に染まるにつれまして度胸がすわり、仲間うちでは相応に顔が売れてまいる、坂本の勘太てえば、あの墨染《すみぞめ》勘太かと申すぐらいで。この野郎が墨染という抹香《まっこう》くさい異名《いみょう》をとった訳を申し上げないとお分りになりますまいが、何も深い理窟のあるんではございません、異名だの綽名《あだな》だのと申すものは御存じの通り、その者の身体のうちか、あるいはまた言行のうちに一ヶ所の目安になるものがあって呼ばれるんでげす。勘太ッてえ奴も矢張《やっぱ》りそうなんで、脊中に墨染の文身《ほりもの》をしているからでございます。申すまでもないことでげすが墨染とはお芝居なんぞの中幕によく演《や》るあの関《せき》の扉《と》でげすな、大伴《おおとも》の黒主《くろぬし》が小町桜の精に苦しめらるゝ花やかな幕で、お芝居には至極結構
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